27年前の日本人の足跡2 [出張先にて]
その際に、大迫先生からお預かりした写真の中には、クントゥール村の養蚕農家の家族写真の他に、チャトラゴディハリ村の養蚕農家が桑園をバックに1人写った写真も含まれていた。ラマッパさんというその方の名前と、チャトラゴディハリ村という名前を頼りに、僕はカルナタカ州養蚕局(DOS)コラール事務所を訪ねた際、この村に行って今どんな様子なのかを見ておきたいと要望した。
ラマッパさんの消息は、DOS事務所の職員の方々とチャトラゴディハリ村の人々のお陰で意外と簡単にわかった。2008年に85歳でお亡くなりになっており、ラマッパさんの9人の子供たちのうち、兄弟4人はチャトラゴディハリ村やコラール市に残って様々な活動をされているという。
ラマッパさんの農園を直接引き継いでいるのは四男のスリニヴァサ・ゴウダさん(44歳)だった。チャトラゴディハリ村の集落から少し奥に入った農園地帯に居を構えたスリニヴァサさんは、残念ながら今は養蚕をやっていないという。養蚕をやめてしまったのも、1989年とかなり前のことらしい。
27年前の日本人の足跡 [出張先にて]
日本人の昔の足跡を探す旅の第二弾は、1984年夏にカルナタカ州で養蚕村の農村調査をされた大迫輝通博士の足跡を辿るものである。南インドの養蚕について調べているうちに、大迫先生が1980年代に発表された論文に出会い、実際に岐阜県大垣市に大迫先生を訪ね、お話を伺った。大迫先生は1980年代に3回インドで農村調査を行われているが、そのうち1984年の調査の際の写真を何枚かお預かりした。
その写真を持って、カルナタカ州チャムラジナガル県クントゥール村を訪ねた。普段から養蚕経営指導で頻繁にこの村を訪れている州蚕糸局の職員の方の案内の下、写真を辿って大迫先生の足取りを辿っていったら、行き着いたのがK.G.プラブスワミーさんの家。当時の世帯主は父親のデヴァルさんだったが、2000年2月にお亡くなりになり、今はプラブスワミーさんが一家の大黒柱である。
プラブスワミーさんは当時は23~24歳だったので、大迫先生の来訪時のことをよく覚えているという。2日間にわたって世帯調査をされ、プラブスワミーさんの家では、蚕室や桑畑も見に行き、聞き取りには半日近くを費やしたという。
当時の写真に写っていた家族のうち、弟とお母さんはご健在だった。弟は別の家に住んでいるので会えなかったが、現在のプラブスワミーさん一家の写真を撮らせていただいた。現像して大迫先生にお渡しするとともに、プラブスワミーさんにもお送りしようと思ったが、なんと奥様がデジカメを持っておられて、その場で済んでしまった。インドの農村でデジカメを持っている世帯を見たのは初めてだ。
40年前の日本人の足跡 [出張先にて]
H. L.ヴァサンタ・クマール(55歳)は、カルナタカ州で有名な穀物ラーギの育種専門家である。父親のC. H.ラクシュマイアから二代続けてラーギの育種に携わる。ヴァサンタは今、バンガロール州立農科大学傘下にあるマンディア県の地域農業試験分場で働いている。
ヴァサンタがまだ10代前半だった頃、父親の仕事の関係で住んでいた支場のスタッフ宿舎周辺で、日本人の子供達と遊んだことをよく覚えている。1965年から72年頃までのことだという。ヴァサンタは彼らにカンナダ語を教え、彼らから日本語を教わった。今でも少しだけ日本語を覚えている。「あなたの名前は何ですか?」ということができる。
マンディアには、日本とインドの合意に基づいて1962年(昭和37年)から始まった「デモンストレーション・ファーム(模範農場)」と呼ばれる技術協力の一環で設置された農場の1つで、1964年に開所した。この農場はその後、1968年(同43年)に「日印農業普及センター」に改組され、本格的な技術協力プロジェクトとなった。日本人の農業専門家が長期派遣されて、75年(同50年)まで協力が行なわれた。
ヴァサンタは、こうして赴任してきていた日本人専門家家族と交流し、今もセンター跡地で勤務しているという、数少ない昔の歴史の証言者である。ヴァサンタは、特に専門家チームのリーダーだった末次勲さんのことをよく覚えており、バンガロールやマイソールによく連れて行ってもらったと回想する。
専門家の人々が今どこにいるか知っているかと聞かれたが、残念ながら僕には探し出す術がない。せめて、このブログでこうした40年以上前の南インドにおける日本人専門家チームのご活躍が、地域で今も記憶に残っていることを伝えたくて、ブログで取り上げることにした。この専門家チームの皆様、あるいはご家族、ご子息の方々がもしこの記事を読まれることがあったら、是非下記にご連絡を下さい。
Dr. H. L. Vasantha Kumar
Ragi Breeder
Zonal Agricultural Research Station
V.C.Farm, Mandya 571405
Karnataka, INDIA
Mobile: 9845050921
サトウキビから砂糖を作る [出張先にて]
訪問先のインド・カルナタカ州マンディア県は、バンガロールからマイソールに向かうハイウェイの沿線に位置する。カーヴェリ川を水源にした灌漑水路が発達していて、緑が豊富な農業県だ。作付は稲、サトウキビが目立ち、所々に桑畑ばかりが集まった養蚕集積地帯があり、その他にもジョワール(粟)が所々で作られていた。6月中旬のこの時期は、稲刈りが始まる直前のようで所々で稲刈りの風景も見られる。サトウキビは1回植えておけば15~18ヵ月で収穫でき、その後同じ株から何度でも生えてくる。
ある養蚕農家を訪ねてみたところ、ちょうどサトウキビから蔗糖を作る作業を家族総出でやっていた。一瞬「児童労働か」と思ったが、よくよく考えたらこの日は日曜日で、子供たちは家のお手伝いをしていたというわけ。7エーカーの土地持ち。うち4エーカーをサトウキビ栽培に、2エーカーを桑栽培に充てていた。
大鍋が3基並べられていて、サトウキビから抽出した樹液を煮込んで徐々に徐々に濃縮していく。奥の鍋の方が高い位置に置かれていて、鍋を移しやすいように工夫がされている。燃料に使われているのはココナッツの実やサトウキビの搾りかす。このあたりならどこにでもある材料で、特にサトウキビはそこらじゅうに積み上げられて乾燥させられていた。
ナイバシャ湖の風景 [出張先にて]
北京からの帰還 [出張先にて]
▲遠景ながら世界銀行のチーフエコノミストのブルギニオン氏のスピーチ (スミマセン、他の写真が軒並みピンボケなもので…)
北京出張の最大目的だったセミナー開催が終了した。今年度の自分の仕事を考えた場合の最大のイベントだっただけに、無事に終わって感無量である。昨年6月に初めて人事異動の希望時期を聞かれた際、これを終了させた後の2月を目安として、ここまではできれば自分で見届けたいと希望していた。ここを目指して、一昨年の11月頃からシナリオを描いた。その布石としてこれまでにサンクトペテルブルグ出張(2006年1月)やシンガポール出張(2006年9月)も行ってきた。そして、その間にも北京に向けてセミナーのパネリストの人選のための人脈を着々と構築していった。
北京に行ってきます [出張先にて]
13日から18日までの予定で、中国・北京に行ってまいります。北京友誼賓館(Beijing Friendship Hotel)で開催される会議に出席するためで、期間中はホテル缶詰になります。
北京は寒いのだろうか、去年の今頃ロシア・サンクトペテルブルグにも行ったけど、あの時(ひどい時は氷点下25℃)ほどではないことを祈りたい。
ところで、今回の旅に持っていく本はこちらです。こんなに読みきれるんだろうか…
JALはもうこりごり(旅の失敗4) [出張先にて]
1.教訓
もう絶対にJALは使わない。サービス散々。
2.JALへの不信(その1)
シンガポールは先週末から今週にかけて、世界銀行と国際通貨基金(IMF)の年次総会をはじめとする様々なイベントが開催されていて、国外から多くのお客様が来訪した。聞くところによると、最大23,000人が来訪したのだそうだ。そうなるとシンガポール行きのフライトはなかなか取れない。普通ならシンガポール航空(SQ)かSQと共同運航している全日空(ANA)を使いたいところだったが、たいてい人気があるフライトから埋まるので、ぎりぎりになって予約を試みた僕達は、自ずとJALを選択せざるを得なかった。
その上、出発予定日の前日(13日)に航空券を受け取った後になって、19日のセミナーのパネリストをやるように頼まれ、急遽現地滞在を1日延長する必要にかられた。14日朝、成田空港でチェックインした後、JALのカウンターで19日の予約を入れようとした。
「あいにく満席ですので、キャンセル待ちになります。」
「それじゃあウェイティングリストに名前載せておいて下さい。」
「わかりました。予約が取れたらホテルに連絡しますので、ホテル名を教えて下さい。」
「Pan Pacificです。」
ところが、現地入りした後、18日朝になってもホテルには連絡が来ない。仕方なく、JALのシンガポール支店に電話を入れてみた。
「Sanchai様のお名前はウェイティングリストに見当たりませんが、どちらで予約を入れられたのでしょうか?」
ラップトップ(旅の失敗3) [出張先にて]
ラップトップ、一応持ってきました。2000年に購入したIBMのThinkPad。でも、正直具合があまりにも悪いラップトップで、スタンドアローンでWordやPowerPointの資料を作る目的でしか携行していなかった。当然ネット接続して使うことを考えておらず、出張先ではメールチェックをしていなかった。
僕は元々出張先でメールチェックをするのは好きではなく、出張中は出張に関係する仕事に集中したいという主義だ。他の用件でメールをされるのが嫌な人間なのである。
でも、今回は、シンガポールへ出発する直前の13日に、19日夕方のセミナーでパネリストを務めてほしいという依頼を主催者から受け、元々予定していた用件が終わったらその準備に入らなければならなかった。主催者との連絡調整、必要な資料のネット上での閲覧等、本当はやらなければいけなかった。でも、東京にいる時に何を発言するかは何となくは考えていたので、発言要領を推敲するだけならネットに繋げられなくてもWordでできるとたかをくくっていたのである。それに、主催者も現地入りしているわけだから、メールじゃなくても会場で直接コンタクトできるとも思った。
ケータイないと結構不便(旅の失敗2) [出張先にて]
今回ほど携帯電話の大切さを痛感させられた旅はない。
出張出発の朝、成田空港で出国ゲートに向かう途中、ドコモがレンタルサービスのキャンペーンをやっているのを見かけた。まあ携帯持っていてもそんなに使わないだろうと思い、お金がもったいないからと加入せずに出国手続に向かった。
1.初日の失敗 携帯電話を持たずに動いた最大の失敗は、1日遅れて現地入りした上司との連絡がうまくつかなかったことだ。出張の目的はセキュリティがかなり厳しい中で行なわれたセミナーに出ることだったのだが、上司は到着した翌日の朝に顔写真付IDパスの作成がうまくいかず、登録デスクで拒否されてしまった。
初日午前中のセッションにいつまで経っても現れない上司に、おかしいなと思ったのだが、セミナーの日程はどんどん進行しており、昼過ぎになるまでホテルの自室に戻れなかった。戻ってみると室内電話に伝言ありのシグナルが点滅している。さっそくボイスメールのメッセージを聞いてみると、未だセミナー会場に入れずに立ち往生していると…。お陰でその後は登録デスクにクレームを入れに行ったり自室に戻って上司と連絡を取ったりの繰り返しで、あまりセミナーに集中できずに過ごしてしまった。ようやく認証が下りて上司がIDパスを取得できたのは2日目の午後だった。