『午後の行商人』 [読書日記]
内容紹介【MT市立図書館】
カメラマンを目指し、メキシコを旅する香月哲夫は、ある夜、暴漢に襲われたが、タランチュラと名乗る老いた行商人に助けられる。彼は、民族解放運動に揺れる南東部へ、行商の途中だった。香月は強引に頼んで旅に同行するが、タランチュラの真の目的は、冷徹・非情の復讐行だった! 直木賞作家による、灼熱の長編冒険ロードノベル。
20年ぶりぐらいの再読である。どういう状況で本作品を読んだのか全く記憶にないのだが、単行本の初版刊行が1997年らしいので、それから数年以内に読んでいるとしたら、多摩に住んでいた頃か、米国駐在時代に読んでいたことになる。多摩に住んでいた頃はそれほど読書好きではなかったので、可能性が高いのは、米国駐在時代に知人から薦められて読んだ可能性が最も高い。
それで、今さらなんで再読したのかというと、この夏、メキシコのチアパス州に1週間ほど行くことになったからだ。メキシコで行われるコミュニティの課題解決に向けたアイデア出しとソリューションのプロトタイピングを短期間で行うというデザインスプリントに参加を申し込んだところ、受理したとの連絡が3月2日に入った。開催地はメキシコ国内8カ所に分散されており、応募の際には第1希望から第3希望まで書けた。チアパス州での先住民女性グループの収入創出活動は、第1だか第2だかで希望はしていたが、僕の経験値から言って、「ドラフト指名漏れ」のリスクの方がはるかに大きい。だから、参加が認められたこと自体が大きな喜びだった。
それでチアパス州に行けるというのは、何かのご縁を感じる。
ただ、内容紹介にもある通りで、本作品を読むと、チアパス州って結構ヤバイところなのかと思えてきて、少々ビビッてしまった。勿論、作品の舞台は1990年代のサパティスタ民族解放軍の活動が活発だった頃のチアパスで、以後テロ活動などは行われなくなったとのことではある。それに、若干のネタばらしになってしまうけれど、本作品で本当にヤバいのは、サパティスタ民族解放軍ではなく、それを鎮圧するために公安組織が養成しようとした、インディオを主力とするバンディード(無法者)なので、反グローバリズムを掲げるサパティスタ民族解放軍の活動の反動勢力としては今は弱まっていると考えてもよいかも。
『我が手の太陽』 [読書日記]
内容紹介【コミセン図書室】
第169回芥川賞候補作。鉄鋼を溶かす高温の火を扱う溶接作業はどの工事現場でも花形的存在。その中でも腕利きの伊東は自他ともに認める熟達した溶接工だ。そんな伊東が突然、スランプに陥った。日に日に失われる職能と自負。野球などプロスポーツ選手が陥るのと同じ、失った自信は訓練や練習では取り戻すことはできない。現場仕事をこなしたい、そんな思いに駆られ、伊東は……。
芥川賞受賞作品、ないしは候補作品を読もうとするたびに、なんだか自分には合わないと感じることがこれまで多かった。どんな作品を読んだのかと訊かれれば、それほど多くはないのだが、読んだ作品はことごとく、僕にとっては読みづらく、それがあまり食指を伸びにくくしているところがある。だから、作品数が多くない結果につながっていると思う。
芥川賞受賞作品は、初読では理解がしづらく、よほどの動機がないと再読にもいたらないのだが、過去一度だけ再読に至ったケースがあった。「よほどの動機」というのがあったケースだが、再読で所見でのわかりづらさは多少払拭できた気がした。僕の読書の経験値が上がっていたのかもしれない。
勿論、今回は「候補作」であって、「受賞作」というカテゴリーを当てはめてどうこう言える作品ではない。ましてや初読なので、多少の読みにくさは覚悟はしていた。
でも、結果的には、面白かった。「溶接」のような地味(溶接工の読者の方がいらしたらごめんなさい)な作業の描写が、このような形で表現されるのだという新鮮な驚きがあったし、地味とは書いてしまったものの、溶接の仕事の奥深さというのを、自分なりに知ることもできた。
こういう作業でも文学作品の対象になり得るのだというのを知り、新鮮な驚きがあった。
同じ仕事を長く続けていると、自分なりの知りつくした気持ちになり、周囲のやり方がものすごくいい加減だと感じる経験は僕もしたことがある。周囲のやり方が許せない気持ち、さらにその許せない気持ちが言動になって表層化するのを抑えられなくなる状況、そしてそれを独りよがりだと誰かから咎められ、それでも忠告を素直に受け入れられない状況―――僕自身も経験があるし、同じような状況は、30年近くも主婦をして地域とつながってきている自分の妻にも最近感じるところがある。
本作品を読了した直後、妻と喧嘩しました。何がきっかけだったかというと、妻が周囲に押し付けようとする「市民としての正しさ」を、聴いていてつらくなったことでした。言っていることは100%正しい、でもそれが完璧にできる人はいない。本作品が影響していた可能性は大いにあります。
『昭和の青春』 [読書日記]
【MT市立図書館】
実用書を借りた時に、「チョイ足し」で借りたもう1冊は、池上彰さんの著書。意外と最近の刊行だが、今調べてみたら刊行日的にはそれより後の著書が2冊はあるようで、この人メチャ多作だなと思う。ネームバリューもあるし、語る内容もボリュームゾーンにうまく打ち込んでくる。年齢的には10歳以上年下の僕らであっても、この手の本は自分たちの少年時代から青春時代を回顧する上でたまには読みたくなる。そして、語り方も上手い。なんというか、記述にムダがない。
出せば確実に売れる。そう厭味ったらしく書いてはみたけれど、読みやすくて良書が多い。
うちの子どもたちを見ていて常々感じるのは、自分のことは語るけれど、他の人のことにはあまり関心がないという点だ。こちらが尋ねれば自分のことについては饒舌に語ってくれる。僕らは仕事を通じてそういうコミュニケーションの取り方を体得して来ているからか、自分のことを話すよりも、相手のことを聞き出す問いの方に注力する。
ところが、同じことが子どもたちの世代の子たちにはあまりできない。そもそも僕たちを相手にして、何かを聞き出そうというところにはあまり関心もなさそうだ。我が家の3人の子どもたちはいずれもその傾向がある。
だから、自分の親がどのように生きてきたのかには、ほとんど関心がない。たぶん、オヤジが鬼籍に入った時に、自分が受動的に見てきたオヤジの姿をもとにオヤジとの思い出は語れるかもしれないが、オヤジが当時何を考えていたのか、どうしてそんな行動を取っていたのかなど、訊かなければわからないような情報はたぶん取れていないだろうと思う。
今さら「オレの話も聴けなどと野暮なことは言うつもりはないが、オヤジやお袋がなぜあんなだったか、わからなければ昭和の時代をサクッと学べる本書を読めとは言いたい。こういう最大公約数的な時代背景や文化風俗・社会経済の成分が、僕らのその後の行動や生き方を規定した部分は相当大きいと思う。
同様に、僕自身の父や母が生きた時代を改めて理解するのにも、本書は有用だった。「チョイ足し」とは書いたけれど、なかなかいいインプットにはなったかな。
『起業家ナース』 [読書日記]
内容紹介【コミセン図書室】
何かを始めるのに遅過ぎることはない!介護士が笑顔で働ける施設をつくりたい――51歳、ベテラン看護師の遅咲き起業物語
先々週末にコミセン図書室に行って、性懲りもなく3冊も借りてしまったものだから、返却期限までに読まなきゃと、すき間時間を利用した読書が続いている。本書も、なんとなく借りずに帰るのは淋しいからというようなはっきりしない理由で借りてしまったので、なんでこんな本を読んでいるのかと訊かれても、積極的な理由はない。適度な薄さだったし、表紙のイラストを見てたらちょっと元気をもらえそうだった。このイラストの看護師さんと目が合ってしまったとしか言いようがない。
これも、前回ご紹介した畠山織恵『ピンヒールで車椅子を押す』と同じビジネス書だ。しかもこの2人の著者はいずれも関西人で、起業もしておられて、ちゃんとした自社のウェブサイトも持っておられる。分野は障害者福祉と看護介護とで違いもあるけれど、多分本を出された動機はいずれも起業とともに行われる事業広報の一環だという印象。いわば、「名刺代わりの1冊」というやつだ。
苦労しながら今に至るという体験談は、読んでいて面白い。本書の著者も、51歳で介護事業所を事業継承するまでは、わりとあっち行ったりこっち行ったりというのが続いた。勤め先の先々での苦労やそこを辞めて次のステップを踏み出すまで考え方といったものは、読んでて参考になるし、お話の中に引き込まれていく感覚があった。
ただ、その介護事業所をM&Aで事業継承する話は、いきなり唐突に出てきて、誰がどのような経緯でこの話を著者に持って行ったのか、著者がどのような判断でこの事業所を継承することにしたのか、全然わからなくて、著者のご経歴の中でも、その部分だけは謎が多くてあまり共感できなかった。売り手の挙動を見ていれば訳あり物件なのは明らかなのに、それでもあえて購入する判断がよくできたと思う。しかも、事業継承後事業所に乗り込んでからの苦労話も、結局のところ、スタッフは著者の経営方針に対して賛同して一緒に歩んでくれるようになったのかどうかがわからない。スタッフの心をどうつかんだのか、事業所の黒字転換の話は書かれているが、スタッフの支持をどう受けたのかの記述が薄めで、ここもあまり共感できなかったポイントである。
『ピンヒールで車椅子を押す』 [読書日記]
内容紹介【コミセン図書室】
自分らしく生きるために、実家を出たい。その一心で両親に「妊娠」という既成事実を突きつけ、家出同然に家を飛び出した。生まれた息子は重度の脳性麻痺だったーー。本書は、誰よりも自分を信用できなかった少女が、障害とともに生まれた我が子を、誰よりも自分を信用できる子に育てようと挑んだ、23年間にわたる親子と家族の成長記録です。
他の誰かになんてならなくていい。どんな過去も、どんな現在も、私たちは自分の手で、希望へと変えることができる。そんなメッセージが詰まった本です。「自分を好きになりたい」、「未来に希望が持てない」、「一歩踏み出す勇気が欲しい」……。そんなあなたに読んでほしい1冊です。
本書を読みながら、「One Size Fits One」(1つのサイズは1人の人にしかフィットしない)という言葉をちょっと噛みしめていた。「脳性麻痺」を患った人が、みなこの亮夏君のように生きられるとは思えないし、考えをはっきり伝えられるとは思えない。たぶん、亮夏君の場合にこの母親が取ったコミュニケーションのあり方は、この母子については合っていたのだと思うけれど、これを重度の脳性麻痺の子の子育て全般に当てはめられるのかどうかはわからない。
僕はブータンでCP(脳性麻痺)の子どもを何人か見てきた。家庭や学校での過ごし方を含めた観察をしてきたわけではないけれど、本書で登場する亮夏君ほど意思表示ができる子は見たことがなかった。
にもかかわらず、本書を読みながら、ブータンで出会ったある母子と本書の主人公である母子の姿を重ねている自分がいた。ブータンでその母子と交流した時間は限られたものでしかなかったが、日常生活はどのようなものであったのか、どのような会話が親子の間で行われるのか、本書での一つ一つのエピソードを読みながら、僕はブータンで見ていなかった部分を埋める作業をしていたような気がする。
障害当事者の方や、その家族が書かれた体験談は、これからもなるべく読むようにしたいと思う。
『シェアハウスかざみどり』 [読書日記]
内容紹介【MT市立図書館】
あなたの人生の転機はどこですか?
海を臨む小高い丘に建つ洋館。好条件、好待遇のシェアハウスキャンペーンで集まったのは、ちょっと風変わりな人たち。就職活動がうまくいかない大学生、自分のこだわりと作り話を愛する老女、通販好きの子持ち主婦、方向音痴の訳あり運転手。何の共通点もない4人は、無愛想な黒ずくめのイケメン管理人とともにクリスマスまで共同生活を営む。他者との交流を経て少しずつ変化していく5人だったが、台風の日に洋館のシンボルの風見鶏が吹き飛ばされたことで、平穏な生活の歯車が少しずつ狂い始めて――。
超朝型生活から超夜型生活にパターンをシフトさせた。オンライン講義を受講する水曜夜だけじゃなく、他の曜日も午前零時を過ぎても起きている生活が普通の姿になってきた。当然、朝風呂の頻度も減り、なるべく夜のうちに入浴を済ませるようになった。寝起きの髪のぼさぼさを避けるため、髪も短く切った。
湯船に浸かってボーっとするのは至福の時間。深夜12時過ぎの入浴のお供はNHKの「ラジオ深夜便」だ。ビンテージロックの特集をやってくれる曜日や時間帯もあるが、40分ほどの朗読をやってくれるプログラムもあったりする。狙って聴いているわけではないが、出会いの奇跡みたいなものだろう。
「ラジオ深夜便」の朗読コーナーで、初めて耳にしたのが、名取佐和子の「臨時ダイヤ」だった。この朗読はこれまでも何度かオンエアされているようなので、過去に聴いたという方もいらっしゃるかもしれない。いいお話だった。というか、こういう、魂のちょっとした「救済」が描かれて、エンディングでちょっとホッとさせられる、それでいて自分たちの身の回りではちょっと起こらないかもしれない「日常性の中の非日常性」がある作品が、僕は好きなのだろうと思う。
お恥ずかしいことに、初めて名を耳にする作家さんであった。そこで、小難しい実用書や専門書の合間に、図書館で1冊借りて読んでみた。サンチャイ★ブログでは初出の作家さんである。
『新 忘れられた日本人』 [読書日記]
内容紹介【MT市立図書館】
ノンフィクションの巨人が膨大な取材ノートから再び紡ぎだした、忘れえぬ日本人たち。悪党、無私の人・・・・。 すべての人間類型がここにある。
いやぁ、このタイトルの付け方はズルいな。扱われている人物のほとんどは「知る人ぞ知る」人ばかりで、「忘れられた」人ではない。おそらく、このタイトルで「宮本常一」を期待して本書を手に取っちゃった読者は多いのではないだろうか。で、読み始めて数節読んだだけで、「違うやろ」と戸惑った読者も、相当数に上ったのではないかと思う。
宮本常一の『忘れられた日本人』を有名にした「土佐源氏」や「梶田富五郎翁」は、僕の初読から10年以上が経過している今でも、どんなお話だったか覚えている。強烈な印象を読者に残す作品だが、世にその名をとどろかせたような輝かしい過去があるわけではない、庶民の中の1人ひとりだ。それに比べて、『新 忘れられた日本人』で扱われた人々は、それなりに世に名をとどろかせたか、あるいは世に名をとどろかせた人の背後にいた重要人物だった人ばかりである。一顧だにされない市井の人々とは違い、ちょっと記憶にとどめておいてもいいぐらい、強烈な個性や強烈なインパクトを残した人物ばかりといえる。「忘れられた」ではなく、「見落とすべからざる」人々だろう。「忘れる」というのとは全然違う。
いくら宮本常一の評伝を書いた人だからといって、この使い方はしちゃいけないのでは?
『一番わかりやすい!メタバースざっくり知識』 [読書日記]
一番わかりやすい!メタバースざっくり知識 (KAWADE夢文庫 K 1192)
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2022/10/13
- メディア: 文庫
内容紹介【MT市立図書館】
進化のカギを握る技術とは? 私たちの仕事や暮らしは今後どう変わる? ……仮想空間の“今”と“これから”を解説。
市立図書館で別の本を予約していたのだが、いずれもちょっと厚めの実用書だったので、1冊ぐらいさらっと読める文庫か新書サイズの本を加えようと考え、蔵書棚を物色して気になった本を選んだ。こういう借り方は今後もするかもしれない。
どうして本書だったかというと、先月藤井太洋『オーグメンテッド・スカイ』を読んだ際、その感想として、「実際にVRゴーグルを装着して、誰かが没入しているところをメタで見るような経験があればもっとイメージしやすかったかもしれない」と書いていたからだ。VRゴーグルを装着してVR体験をしたことが全くないというわけではないが、なんかイメージしづらかったのだ。たぶん、この作品では、ゴーグルを装着していた生徒とそうではない観客としてその場にいた生徒がいたと思うのだが、最大の疑問は、ゴーグルを装着していなかった生徒がどれくら没入できるのか、それとそもそも彼らはゴーグルを付けずに何を見ているのかということだった。
よくわからないので、取りあえずVRも含め、「メタバース」の現在位置を知っておきたいと思い、こういうざっくり知識の本を読んでみることにしたのである。
結論から言うと、ゴーグルを装着しない領域での話であっても十分「メタバース」の定義には入って来るのだというのが理解できた。いや、そうじゃなきゃJR東日本とか三越伊勢丹とかが本書で取り上げられることはなかったのではないかと思う。それに、「あつ森」や「マインクラフト」もこの執筆チームの定義では「メタバース」として引っかかって来る。僕は思うところがあって最近マイクラ(マインクラフト)の教育版をダウンロードしてちょっとだけかじってみたが、こういう場で自分なりのコミュニティを作ることも「メタバース」なんだと気付かされた。
『オーグメンテッド・スカイ』のような、東大合格者が毎年1人出るか出ないかという程度の進学校であってもVR作品で全国や世界と戦ったりできるというところまでは、まだVRも一般普及はしていないということなんですかね…?
で、類は友を呼ぶというか、こんな本を読んだ後先週末横浜に行ったら、YOXO Festival(ヨクゾフェスティバル)というお祭りが行われていて、時間の制約上唯一訪れることができた横浜ハンマーヘッドの会場では、VR関連の展示がものすごく多かった。これまた時間の関係で、僕はある特定のブースに出かけて出展作品とその製作者と話をするので多くの時間を費やしてしまったが、そのブースの後ろで親子連れがラップトップで格闘していたのが「マイクラ」であった。主宰されている方とお話しして、「ゲームとしてではなく、自分なりの建造物をデザインしてアップできるという点で、オジサンでもマイクラには興味があるのです」とアピールしておいた。
今はあまりマイクラにかけるだけの余力はないのだけれど、今受講中の研修が7月に首尾よく卒業を迎えることができたら、ちょっとばかしかじってみたいと思っている。
『マンガでわかる! 認知症の人が見ている世界2』 [読書日記]
内容紹介【コミセン図書室】
今なお続く新型コロナウイルス感染症の流行。国立長寿医療研究センターによれば、コロナ禍で孤独が募ることにより、認知症の人の認知機能の低下リスクは2.7倍に高まったことが報告されています。家族との面会が制限され、面会は窓越しやオンラインが中心。コミュニケーションもマスク越しとなり、そのためか、徘徊や不穏などの症状が悪化してしまうケースが介護現場から数多く報告されています。超高齢社会に突入した日本では、認知症患者が増えつづけており、認知症の人とどう接するかは、多くの人にとって重大な関心事といえるでしょう。
本書は、認知症の人が見ている世界と、周囲の家族や介護者が見ている世界との違いをマンガで克明に描き、困った言動への具体的な対応策を紹介していきます。本書を読んで認知症の人が見ている世界を理解することにより、認知症の人への適切な寄り添い方を知り、毎日の介護の負担を軽減する一助としてください。
なぜだか知らないが、既に第3巻も出ているこのシリーズ、第2巻だけがコミセン図書室に所蔵されている。去年9月のアマゾン介護部門書籍のベストセラー第1位だったそうだから、第1巻を差し置いていきなり第2巻だけを入れたということなのかもしれない。できれば、第1巻も第3巻も入れてほしいものだな。それくらい理解しやすい構成になっている。
本書を手に取ったのは、マンガで開設されていたのが大きいが、3年前の今頃、介護士のお世話になっていた父のことを思い出しながら、あの時どうすればよかったのか、一度考えてみたいと思ったのも理由としてはある。次は義父にも少し認知症の気配が見えてきたこともあるし、僕自身の最近の忘れっぽさとか、物事への集中のできなさとか、これは老いとともにある程度予想されうることなのか、それとも自分の認知能力が低下しつつあるのかとか、自分自身のこととして、気になることもあった。
妻は自分の父親に対してはけっこう厳しいことを言うし、僕に対してもそういうところがある。嫌な感じがすることもあるが、関係を壊したくないから不快感を表明するよりも自分の中で呑み込むことが多い。本書でいうところの「スピーチロック」の軽いバージョンかもしれない。
そういう、認知症の人にやっていいこととやるべきではないことの整理が、本書を斜め読みするだけでもけっこう進んだ気がする。読んだことをその局面局面ですぐに思い出して実践につなげられるかどうかはわからないが、そうでなくても時々パラパラとページをめくり、あの時の自分の取った措置は適切だったのかどうか、振り返ってみるという使い方なら結構有用だろう。
『美術手帖 2022年2月号』~ケアの思想とアート [読書日記]
内容紹介【MT市立図書館】
医療や福祉の現場における意思決定のプロセスや、ケア労働とジェンダーの問題などが議論されるなかで、自己責任の限界を提唱する「ケア」の概念が注目されてきた。本特集では、介護や子育てといったケア労働を扱った作品から、 他者との関係性のなかにある自己について考える作品まで、広く「ケア」の思想に通じる活動をする作家やプロジェクトを取り上げる。美術はこれまでも、異なる身体や感覚を持つ人々が他者について想像する契機となってきた。コロナ禍により、かつてなく生命の危うさに向き合わざるをえない今日、私たちはいかにして個人主義的な価値観を脱し、ともに生きることができるのか。アートの視点から考えてみたい。
何の気なしに市立図書館に立ち寄り、最初は借りる気がなかったのに、日本を離れていた2年半の間に『美術手帖』ではどんな特集が組まれたのかとふと気になり、書庫を物色して1冊だけピックアップした。
「ケアとアート」という組み合わせに新鮮さを感じた。インタビューや対談等で構成されているのだが、スミマセン、読了から数日経過しているのと、気になった既述に付箋をふるような作業をしてなかったので、具体的にどこの誰の言葉が気になったのかまではここでは書けない。ただ、なんとなくだけれど今ちょっと注目されている障害当事者の方が描かれた絵やデザインを売るビジネスというのに、なんだか新しい境界線を画定しているような違和感があって、それを言語化してくれている記述があったのだけは記憶に残っている。
本書で登場されているアーティストや研究者の方々が、キュレーションや研究プロジェクトの背景にあった考え方とか日頃感じておられたモヤモヤ感を、どうしてこんなに言語化できるのだろうか―――自分がブログで記事を書いていて、そういう、ニッチなところを的確に突いてくるような文章表現がなかなかできないので、僕はこういう本で登場する人々の言語化能力の高さにちょっと圧倒されたところがある。
今読んでいる別の本の中に、「エクストリームを理解することによって、メインストリームを変革することができる」という表現があった。アート作品というよりも、ここでは実装がある程度前提となっているプロダクトデザインの文脈の中での記述だったと思うが、利用する上でのエクストリームなシナリオこそが新しい製品アイデアや操作方法のイノベーションを圧倒的に生み出してきたという指摘を見ながら、それはケアとアートの接点領域においても言えることなのかもしれないと思った。