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無事は無事だが… [インド心残り]

インド北東部・シッキム大地震の続報である。

救出活動は東日本大震災とは別の意味で難航を極めているようだ。この時期のシッキム州や西ベンガル州北部は雨季で、降水量が非常に多いため、ただでも地盤が緩んでいていたる所で土砂崩れが起きている。日本で今夏台風の影響で土砂災害に見舞われた紀伊半島内陸部の被災地に救助隊が辿り着くのに難儀していたのとよく似ている。道路がいたる所で寸断されていて、それを取りあえず復旧しながら先に進もうとされているのだろう。

AFP電は最も被災状況が激甚だったシッキム州を中心に報じているが、隣りの西ベンガル州カリンポンの様子についても、知人を通じて教えていただいた。幸い、現地に住んでいるP君やRさんとはメールやフェースブックで連絡がつき、ご家族や一緒に働いているスタッフの方々の無事は確認できた。でも、P君が地域の園芸振興プロジェクトの拠点としていた現地の寄宿学校は施設の損壊がかなりあったようだ。

以下は、P君たちの活動を日本から支えている宮崎のNGOのS代表から伺ったお話である―――。

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大地震、みんなは無事か [インド心残り]

昨日(18日)、インド・シッキム州でマグニチュード6.9の大地震が発生した。AFPの写真はシッキムから山間地を下り切った麓のシリグリの様子であり、シリグリでこんな様子なら、ダージリンやカリンポンのようにシッキムにもっと近い場所の被害は計り知れない。カリンポンには知り合いも多く、今日は朝からメールを打ったり、国際電話を試みたり…。結局電話は繋がらないので、向こうからの連絡待ちの状態となった。

昼過ぎ、カリンポンの知り合いの筆頭であるP君から僕の携帯にメールが届いた。彼の家族も、彼と一緒に地域興しのために活動しているプロジェクトのスタッフとその家族も無事だとのことでひと安心。P君達の活動を支援している宮崎のNGOのS代表からも連絡をいただき、被害状況を確認して早急に対応策を考えるとのことだった。

Yahoo!ニュースのコメント欄を読んでいると、「(東日本大震災の時には世話になったので)今度は日本がインドに恩返しをする番、一刻も早く日本政府は緊急支援を」という論調が多く、とても勇気づけられる。ただ、スマトラ沖地震津波災害の時にも外国からの緊急支援を一切受けなかったインド政府が、今回に限って受け入れるとは思えない。(2001年のグジャラートの大地震の時は、州政府がフライングで要請してしまった経緯があるらしい。)それに、インドは国が広く、緊急支援物資を外から持ち込むとしても、コルカタ陸揚げで陸送するには途中の山岳道路がすんなり通れるかどうか保証はない。ましてやデリーからだと、州境を越える旅に従量税が科せられる。これを免除してもらう協力依頼文書を日本大使館かインド政府から取り付けるのにも苦労しそうだ。

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近況 [インド心残り]

Happy Diwali.jpgこのところアフリカや東南アジアを扱った書籍の紹介が多くてインドのことを扱う記事がめっきり減ってしまっている。それでもインド各地からこのブログにアクセス下さっている方が多いというのは、昔相当重点的にインド・ネタを扱った時期があったからだろうと思う。でも、実際問題、インドから離れてみると日常的にインドを感じる機会が少なく、なんだか寂しい。せっかくインドで作ってきた人脈も、かき集めたインド情報も、自分なりにやった勉強も、仕事の上では何も生かせていない。

以前頼まれて相当時間を割いて取り組んだ某週刊誌のコラムも、「帰国されたら一席設けます」と編集部の担当の方は仰っていたが結局実現していない。インドでの調査旅費に充てたいからやっぱり原稿料下さいと7月になって急に要望したのが良くなかったのか、なしのつぶてである。まあ、それ以前に、自分の原稿がどういう形で掲載されたのか、コラムのPDFファイルを送って欲しいと再三要望したのに対し、「やりますやります」「来週にはできます」と連呼しておきながら結局やってくれていないという点では、単にその担当記者の方個人の問題のような気もするが…。

つくづく「インド離れりゃただの人」だな。

ただ、最近ちょっと嬉しい話もある。

1.英文翻訳ボランティア
日本の某企業が現地NGOとパートナー関係を結んで始めたオーガニックコットン農家支援の事業で、現地NGOから上がってくる四半期レポートの英文翻訳のお手伝いを始めた。以前からやりますと申し上げていたのだが、ようやく初めての5頁程度のレポートが現地から上がってきて、それを1週間で翻訳する作業が必要になり、それを無償で請け負った。今週末にやってしまえるボリュームだ。

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またまたインドで列車事故… [インド心残り]


このAFP電を目にしたのは事故発生当日(19日)朝だった。まあインドで列車事故というのはよく発生するので、またかと呆れながら記事を読んでいくと、「コルカタの北200km」とある。そりゃシャンティニケタンの近くじゃないかとすぐに想像し、地図で調べてみた。

案の定シャンティニケタンからかなり近い。僕がインド駐在中にお世話になった日本人Kさんが今もシャンティニケタンで日本語教師として働いていらっしゃる。まあ無事だろうとは思ったものの、念のためにご本人のケータイに電話を入れてみる。呼び出し音数回でご本人が出た。

「今、起きたところです」―――ということだったのでひと安心。

こうした場合の安否確認は僕の仕事ではないものの、先週土曜日に三鷹で開かれた時事英語の自主勉強会に出席した際、3月のスタディツアーでシャンティニケタンを訪ねたことがある知人と偶然再会してまさにそのKさんの話をしたばかりだったので、取りあえずは連絡を入れてみようと思った次第。

未だインドには未練を引きずっているいる感じ…。

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ユニクロとグラミン銀行の提携に思ったこと [インド心残り]


14日(水)のテレビ、新聞報道で最も目立ったのはこのニュースである。バングラで製造して日本で売るという話ではなく、バングラ国内で売るための合弁事業だ。グラミン銀行は携帯電話のレンタルサービスを「テレフォン・レディ」と呼ばれる女性事業者を通じて普及させた実績がある。この女性事業者の起業資金や運転資金としてグラミン銀行は小口融資(マイクロクレジット)を提供してきた。確か、ダノンとも組んで農村での乳製品の販売もやっていたと思う。いわば「ヤクルト・レディ」のバングラ版だ。おそらく、ユニクロとの合弁で生産された衣料品をこうしたチャンネルを使って販売しようという試みなのだろう。

この報道を横目で見ながら僕は思ったことが1つある。
――某日系カタログ通販会社がインドで展開しようとしていたあの事業は今どうなっているのか?

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アミーラさんの日本語学校 [インド心残り]

ネパールの大学に「日本語センター」設立―アミーラ・ダリさん
7月8日(木)、東京新聞「この人」
 「自分が日本人なのか、ネパール人なのか分からなくなる」と言うほど、日本とのかかわりは深い。
 「天才少女」と呼ばれ、12歳で高校を卒業。21歳で来日して天理大を経て上智大大学院へ。研究テーマは「総合商社」で経営学から企業風土まで学んだ。
 帰国後は日系商社勤務の傍ら、NGOラブ・グリーン・ネパールを設立。奨学金制度などネパール女性の教育・地位向上に尽力。それが評価され昨年、日本の海外技術者研修協会から社会貢献大賞を贈られた。
 受賞を機に、日本語と日本を本格的に学べる場をネパールに作るという夢に向け動き出した。長年の友人であるネパール中南部・バルクマリ大学の学長と東京都内の日本語学校理事長に協力を要請。来年秋、同大に「日本語センター」の開設が決まった。
 自身もアドバイザーとして運営にかかわる。将来は看護や介護など日本で人材が不足している分野で、技術と日本語を身に付けた人材を育てたいという。
 「どちらも国旗に太陽がある両国の架け橋となり、ネパールを変える力を持つ人が増えてほしい」。カトマンズで夫と暮らす。55歳。
アミーラさんが昨年、海外技術者研修協会(AOTS)から表彰されたという話は当時の新聞でも大々的に取り上げられていたのでよく覚えている。1990年代後半の2年少々の間、アミーラさんが現地でゼネラル・マネージャーをされていた日系商社とはよく取引させてもらい、しかも大学院の先輩後輩関係(僕が後輩)があったことから、カトマンズでは親しくさせていただいた。NGOラブ・グリーン・ネパールは、僕のカトマンズ駐在末期に初めて名前を聞いた現地NGOで、当時はまだ具体的に事業をされているわけではなかったように記憶している。トリブバン大学で行なわれた都市環境セミナーで、日本から来られて街路樹整備の効用についてプレゼンされた発表者の方のアテンドをアミーラさんがなさっていて、「え、そんなこともやっておられるんですか?」という会話を会場で交わしたのを覚えている。

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週刊誌への寄稿終わる [インド心残り]

昨年10月から執筆担当してきた某週刊誌の隔週コラムが、7月1日締切分原稿提出を以ってお役御免となった。振り返ってみると7月1日分を含めて19本ものコラムが積み上がっていた。読者がお金を払って読んで下さるようなメディアで個人名のコラムを載せたのは当然初めてのことで、とても貴重な経験となったと思う。

大変な時期もあった。昨年末から今年前半は仕事で問題を抱えていたので、原稿執筆のための情報収集をやっている余裕があまりなかった。とはいえ締切も決められていたので、時には夜更かしもしたし、週末に原稿執筆をある程度済ませておき、隔週木曜日の締切までに事態の進展でもあった場合には適宜加筆修正して原稿提出することが多かった。原稿執筆コードに引っ掛かり、急遽別の原稿を2日で書き上げたこともある。

たいていの場合、僕は1回の原稿執筆に向けて2、3本のテーマ候補を想定して情報収集を開始する。それを執筆段階で1テーマに絞り込むわけだが、ボツにしたテーマもいずれ復活させたいと思っていたのに、予想外の早い異動で採用する機会を逸したネタもある。地下水砒素汚染問題なんかはその好例だ。

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離任カウントダウン0-通算記事1800号 [インド心残り]

すみません、実は既に帰国して自宅に到着しています。離任当日は本当にバタバタで、とてもブログアップしている時間がありませんでしたが、改めて6月25日(金)の日誌―――。

1)前日ご紹介の通り、W杯の日本対デンマークをヤフーの速報でフォローしつつ、使用人の給与の計算をしていた。コックとメイドに渡す分ぐらいの現金は持っていたので、封筒に詰める作業まではやったが、運転手の給与計算をしてみると手持ちの現金が十分にないことがわかり、作業を中断。その後はスーツケースに荷物を詰め込む作業をやり、午前3時ぐらいになんとなくソファーの上で居眠りをして過ごした。睡眠時間は多く見ても3時間程度。

2)朝目覚めてからも荷物を詰め込む作業を行ない、9時30分頃にはだいたい全てのパッキングが終わった。9時に出勤したコックに「日本のご家族へ」とでかいマンゴーを6個も渡されたのは焦った。10時に僕の後釜として僕の家を引き継ぐ職場の後輩S君が荷物を持って訪ねてきた。コック、メイドと顔合わせを終え、鍵を僕から受け取った後、S君は職場に戻って行った。

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離任カウントダウン1 [インド心残り]

6月24日(木)の日誌―――。

今日は終日職場で仕事の片付けと後任への業務引継ぎに専念する。昨夜は最後の飲み会で若干飲み過ぎて、睡眠不足も重なっていたので爆睡してしまい、気付いたら朝の7時30分近かった。自宅にいる間に仕事の引継ぎ書を作ってしまおうという目論みは見事に崩れた。

YanaGupta.jpg今日は職場でインド人スタッフも交えて最後の歓送迎会が行なわれた。アルコールなしだったので格好の休肝日だった。名前入りのペンスタンドとペンを記念品として頂戴した。ガラス製のガネーシャが可愛いペンスタンドで、新しい職場でも大事に使わせていただきたいと思う。

もう1つ、職場で僕のラインで仕事してくれていたインド人スタッフから、「キングフィッシャー航空の支店や旅行代理店を当たってお金を払うから欲しいと交渉してみましたけど、立て看板は譲れませんと言われてしまいました」と言われた。「あの看板が欲しい」と半分冗談で言っていたのを聞いてくれていたらしい。それも何人か若手動員して探したのだとか。ありがとうございます。

キングフィッシャー航空のマイレージ会員のパンフレットを代わりにいただいた。表紙がヤナ・グプタ嬢の全身写真で飾られている奴だ。2007年9月に初めての出張でキングフィッシャー航空を利用した際に、機内安全説明の映像で出てきたヤナ嬢に一目惚れして以来、キングフィッシャー航空を利用するのが楽しみだったし、コンノートプレイスのアーケードを歩いて旅行代理店の前を通るのも楽しみだったのだが、離任でしばらくはお預けだ。

お返しと言ってはなんですが、またギター演奏やらせていただきました。曲は①昴、②落葉、③チャンピオン、④カントリーロード(僕は伴奏で、インド人スタッフに歌わせた)、⑤とんぼ―――。プネ旅行や東京からの出張者の応対のために先週は全くギターを手にしていなかったので、指先が柔らかくなってしまい、弦が押さえにくくてコード進行が結構でたらめになってしまった。練習不足はすぐに出る。

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離任カウントダウン2 [インド心残り]

6月23日(水)の日誌―――。

1.引越貨物引き取りまで
この日は引越貨物の引き取りを13時に予定していたので、それを待っている間に幾つかの作業を自宅でした。
1)新聞・雑誌類の処分: 職場の庶務担当スタッフに手伝ってもらい、カバリ(リサイクル業者)に売った。
2)引継ぎ書の作成: 家と車は別々の駐在員に引き継ぐため、それぞれの引継ぎ書を作成した。
3)バスルームの修理: 出が悪かったシャワーのノズル交換と壊れていたトイレの蓋の交換を行なった。

これだけやって13時の運送業者の到着を待ったが、案の定来ない。30分遅れが我慢の限界で、業者に電話を入れたところ、「今着いた」と蕎麦屋の出前的応対。昨年8月に家族が帰る時にも利用した業者なのだが、その時にも堂々と遅れてきた前科があるだけに、僕もブチ切れて、「お前のところは毎回こうして遅れてくるのか」と荒れ狂った。

その担当者は「着てやったんだからいいじゃねーか」と言わんばかりのふてぶてしい態度。口では「アイム・ソーリー」と言ったが、理由は渋滞にはまったとかで、全く反省などしてない様子だった。何時にオフィスを出たのかと聞くと「12時35分」、どこにオフィスがあるのかと聞くと「ここから50km」ぐらい離れているという。その時点で13時に着こうという気がなかったことがバレバレだ。「渋滞予想して早めにオフィスを出発しろ」と僕は怒鳴り散らした。周囲を凍らせる怒鳴り方だった。こういう時の英語は不思議とスラスラと出てくる。

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