SSブログ

『地球に降り立つ』 [持続可能な開発]

渡航前の最期のアップとなります。

地球に降り立つ: 新気候体制を生き抜くための政治

地球に降り立つ: 新気候体制を生き抜くための政治

  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
空気、海洋、氷河、気象、土壌、生命…地球上のあらゆる抗議者が声を上げている。人間‐自然、グローバル‐ローカル、右派‐左派…「近代」的二分法を問い直す。「テレストリアル」的政治の獲得に向けた思考実践。名著『虚構の「近代」』の著者による、覚醒的緊急アピール。
【購入】
昨年7月、このブログで『美術手帖 2020年6月号』を取り上げた際、ブルーノ・ラトゥールの『地球に降り立つ』は読んでみたいと述べていた。僕はその時、ブルーノ・ラトゥールを「アーティスト」と形容していたが、実際にその著書を購入して著者略歴を見ると、「哲学者・人類学者」と書かれている。

1947年フランスのボーヌ生まれ。哲学者・人類学者。現在、パリ政治学院のメディアラボ並びに政治芸術プログラム(SPEAP)付きの名誉教授。2013年ホルベア賞受賞。専門は科学社会学、科学人類学。アクターネットワーク理論(ANT。人間と非人間をともに「行為するもの」として扱う新たな社会理論)に代表される独自の社会科学の構想やANTをベースにした独自の近代文明論で著名。代表作『虚構の「近代」』ではポストモダンではなくノンモダンへの転換の必要性を説き、近年は近代文明が生み出す地球環境破壊、圧倒的な経済格差の問題を正面から取り上げ、問題解決のための政治哲学的分析に力を注ぐ

先に述べた『美術手帖』の特集は「新しいエコロジー」となっていて、内容的にもSDGsや持続可能な開発について、アートがどのように表現しようとしているのか、そのメッセージの表現方法を以って「メディア」と称しているように思えた。こうした見方は、開発の業界にどっぷり浸かっている人間からすると結構新鮮だった。アートを単なる絵画や工作としてしか捉えていないと、アートの持つ可能性を見誤ることにもなりかねない、僕らの取組みにもアート的要素をもっと取り込んでいかないといけない―――そんなことを思うようになったこの2年間であった。

ということで、「哲学者・人類学者」がアート系の雑誌でフィーチャーされている理由については少しだけわかった気がした一方で、もう1つ、僕が常々感じている疑問についても述べてみたい。

SDGsは17ものゴールがあり、なかには貧困と飢餓の問題や、不平等と格差の問題なども包含されているのに、SDGsに関する多くの論者や活動家、国際機関の高官等が、「SDGs=気候変動対策」という括りで自らの主張や取組みをアピールしておられる。この2年間、雨後の筍のように次々と出てきたSDGs解説本も、多くは気候変動問題を中心にSDGsゴール達成への取組みの重要性を論じておられる印象だ。

これは、元々貧困問題からこの業界に入った僕のような人間にはちょっと違和感があって、特にSDGs解説本の多くが、そうした開発途上国の課題解決への取組みに協力していくという、従来からあった取組みの強化という点にほとんど言及していないのは、これまでの僕らのやってきたことを否定されているような気持ちすらしたものである。

「何か忘れていませんか?」―――僕らはそう言いたいところだが、本書を読んでいたら、ひょっとしたら、何か忘れているのは僕ら自身なのかもしれないと思えてきた。

僕らが1990年代初頭から見てきたものは、規制緩和の波であり、グローバリゼーションの進展であり、そして格差の拡大であった。そして、さらに著者が注目するのが、「気候変動を否定しようという組織的努力」が始まったことなのだという。

本書の第1章で、著者はこんなことを書いている。

 小著で提起したいのは、この三つの現象がある一つの歴史的状況の兆候だということである。状況とは、支配階級の相当部分(今日ではもっとざっくりと「エリート層」と見なされる)が、自分たちとその他すべての人類を住まわすほど地球(earth)は広くないという結論にたどり着いたことである。
 そのため彼らは、人類共通の地平――誰もが繁栄を謳歌する平等世界――に向けて歴史は進むと考えるのはもう理に適わないと判断し、1980年代以降、振る舞いを一変させて、世界を主導する代わりに世界から自己を防衛するようになった。彼らの逃走の影響がいま私たちを襲っている。ドナルド・トランプは多くの影響の一つのシンボルにすぎない。分かち合える共有世界など存在しないという事実が私たちの正気を奪っている。
 気候変動とその否認という問題を私たちが最重要課題と捉えていないとしたら、それは過去50年間の政治を理解し損なったからだろう。これが小著の仮説である。「新気候体制」(New Climatic Regime)に入ったと考えない限り、格差の爆発的増大、規制緩和の適用範囲拡大、グローバリゼーションに向けられた批判、そしてもっとも重要な、国民国家の古びた保護体制へと逃げ帰りたい狂乱的願望を理解することはできない。不都合なことに、その願望は「ポピュリズムの台頭」と誤認されている。(pp.14-15)

僕なりに理解したのは、グローバリゼーション推進派に対して、ローカルを重視する見方があり、両者間の路線対立のようなものがある中で、トランプに代表されるような、こうした二極対立から距離を置いて、この世界の外側で自らを守ろうとする勢力が出てきている。彼らは平気で嘘をつき、嘘も真実だと自ら信じ込もうとする。そうやって人々を対立へと駆り立てておいて、自分たちは安全な場所に身を置く。

彼らにとっては、気候変動すら嘘になる。しかし、実際のところ気候変動は厳然と僕たちの前に立ちはだかり、人が地球に対して影響を及ぼしてきたのが、今や地球が人に対して影響を及ぼすところまで来ている。訳者によると、著者がいう「テレストリアル」とは、「台地、地上的存在、地球。大地に根差すあらゆる地上の存在、およびその総体としての地球を意味し、本書ではプラネット・アース(惑星地球)やグローブ(球体の地球)、ワールド(人間活動空間としての地球)との対比語として用いられている」という。

 とうとう私たちは紛れもない戦時体制に入った(ただ擬似戦争ではあるのだが)。宣戦布告がなされ、その後は休戦状態が続いている。ある人はそこらじゅうに戦争状態が蔓延していると感じ、ある人はそうした状態の中にいることを徹底的に無視する。
 (前略)この闘いは「近代人とテレストリアルとの闘い」と命名してよかろう。近代人は、人類が完新世という地質年代にいまも単独で生きていると信じている。彼らは、グローバルに向けて逃走するか、ローカルに立ち戻るかをひたすら模索している。一方テレストリアルは、自分たちは「人新世」にいると気づいている。彼らは、自分たち以外の多くのテレストリアルと一緒に暮らしていく道を模索している――いまだ政治的制度としての形をなさない強力な権威(=「新気候体制」)のもとで、その道を模索している。
 そして、すぐにでも市民戦争、道徳戦争へと発展するであろうこの闘いが、私たち一人ひとりを内側から分裂させている。(p.138)

僕の理解は必ずしも正確ではないし、包括的でもないかもしれないが、本書には訳者による50ページ近い訳者解題が据えられているので、こちらも参考にされると僕のつたない紹介文よりもよく理解できるに違いない。

ただ、一方で気になったのは、著者自身が2017年原書発刊の本書において、SDGsについて全く語っていないのも驚きだが、訳者解題でも同じく、SDGsに関して一言も言及がないのはもっと驚きだった。ここまで来ると、著者やその著者のシンパでもあるこの翻訳者が、SDGsに対してどのような評価を下しているのか知りたいところだ。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント