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『わたしの愛したインド』 [読書日記]

わたしの愛したインド

わたしの愛したインド

  • 作者: アルンダティ ロイ
  • 出版社/メーカー: 築地書館
  • 発売日: 2000/07
  • メディア: 単行本
内容(「MARC」データベースより)
ブッカー賞受賞のインド人女性作家が、ナルマダ川のダム建設と核兵器開発という、インドが抱える二つの病弊を暴く。優れたルポルタージュと情熱的で烈しい批評を両立させた、現代インドの躍動と狂気を描く炎のスケッチ。
アルンダティ・ロイは世界で一番有名なインド人女性作家だろう。この3ヵ月ぐらいの間に、ロイの著作を紹介するのはこれが三度目だ。英ブッカー賞を受賞し、一時は国民的英雄としてもてはやされたロイも、本書に収録された2編の著作「想像力の終わり」(1998年8月)と「公益の名のもとに」(1999年5月)で、国家としてのインドを敢えて敵にまわした。前者は核開発への反対声明、後者は巨大ダム建設への反対声明だ。いずれも舌鋒鋭いが、どちらかというと本書のお薦めは後者のナルマダ川ダム建設問題で、この問題をコンパクトかつ現場での実体験に基づきリアルに描かれた文献は、『誇りと抵抗』(集英社新書)に収録されたロイの論説「権力政治-ルンペルシュティルツキンの再来」しかない。最初にこの「権力政治」の方を読んだ僕としては、どちらも有用だと思う。

なぜ核開発と巨大ダム建設なのか。翻訳者は解説でこう述べている。
 ダム建設と喝開発という、何も関連のなさそうな出来事は、実はあるシステムによって通底している。前者は少数民族・下層カーストを消去し、後者はヒンドゥー教ナショナリズムを高らかに謳い上げる。小さく多様なものの抹殺によって成り立つ、巨大で一元的なものの支配。これこそが『小さきものたちの神』の著者がもっとも怖れ、憎むものだ。ロイにとって、インドとは多様性である。多様な見方がインドを形作っている。それを失った時、ヒンドゥー国家主義者が何と言おうと、インドは死ぬ。その危機感がロイを駆り立てたのだ。(p.144)
この論説が発表されたのは、ヒンドゥーナショナリスト政党インド人民党(BJP)が与党を占めていた頃のことだ。そうした、全体主義的色彩が強まり、国益のためにはつべこべ言うなという風潮が強まった頃にロイは登場した。

ナルマダ川流域のダム建設で強制移住させられた人々の大半はアディバーシと呼ばれる先住民である。ダムの1つで本件の争点ともなったサルダル・サロバル・ダムの場合は移住を強いられた人の57.6%がアディバーシで、これにダリット(不可触民)を加えると約60%になるという。アディバーシとダリットを合わせても、インド総人口の23%しか占めていないことを考えると、巨大ダム建設がより社会的弱者に対して厳しい対応を強いるということになる。ロイはダム建設反対運動は、こうした立場の弱い人々が巨大な国家に対して行なう闘いだと形容している。
 国は狡猾なやり方で戦っている。見せかけの笑顔に加えて、もう1つの大きな武器は、待つ能力だ。攻撃をいなすことだ。敵を疲れさせることだ。国は決して疲れない。歳をとらない。休息もいらない。バトンを渡しながらいつまでも走り続ける。(中略)
 流域の闘争は疲れ始めている。(中略)今、これまで以上に、おんぼろ軍団は援軍を必要としている。もしそれを死なせてしまったら、闘いが潰されるのを許したら、人々が残酷な扱いを受けるのを許したら、私たちが持っているもっとも大切なものを失うことになるだろう。精神を、あるいはそのわずかな残りを。
 「インドは歩みを止めない」。些細な時事問題に煩わされるのを嫌う者たちは、哲学者ぶって訳知り顔で言うだろう。どういうわけかは知らないが、「インド」はその国民よりも価値があるかのように。(pp.44-45)
僕はこうした記述を読むと、すぐに思うのはハンセン病患者と回復者、家族、そして砒素に汚染された地下水でも仕方なく飲んでいる貧困層の人々のことである。

私の愛したインドはこんな全体主義のインドではない。だから著者は全体主義的なインドの国家に対して決別を宣言する。
 自分の脳に核爆弾を埋め込まれることに抗議するのが反ヒンドゥー的で反国家的であるならば、私はインドを脱退する。私はここに自分が独立した移動共和国であることを宣言する。私は地球の市民である。私は領土を所有しない。私に国旗はない。(中略)私の政策は単純だ。有効な核不拡散条約や核実験禁止条約なら、どんなものでも喜んで調印する。移民は歓迎する。国旗のデザインを手伝ってくれてもいい。
 私の世界は死んだ。私はその死を悼むために書く。
 明らかにそれは、欠陥を持った世界だった。成長できない世界だった。傷だらけの世界だった。その世界を私自身手厳しく批判してきたが、それはただ愛するがゆえだ。(中略)
 私がそれを愛したのは、ただ人間に選ぶ権利を与えてくれるからだ。(中略)異なる生き方があるとあくまで言い張る一条の光。機能する可能性。真の選択の自由。すべてはなくなってしまった。インドの核実験は、そのやり方は、それが(私たちに)引き起こした病的高揚感は、弁護の余地がないものだ。私にとって、それは恐ろしいことを意味する。想像力の終わり。実はそれは自由の終わりでもある。(pp.119-120)
幸いなことに、日本はこうした強制立ち退きを伴うようなインドの巨大ダム建設にはこれまで援助をしてきていない。ナルマダ川流域開発問題で主に批判を浴びているのは世界銀行である。世界銀行の関係者がワシントンとインドとでどのように振る舞ってきたのか、本書の記述からなんとなくはイメージもできる。別にインドに限ったことではないが、どこの国でも巨大プロジェクトを支援する場合に、小さく多様なものたちを抹殺してしまうことがないかどうか、思いを馳せる想像力は必要だ。
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コメント 1

plant

こんにちは。
「小さく多様なものたち・・・想像力」にまったく同感です。
ロイさんの文筆家としてのスタイルについて、ちょっとけれん味が強すぎる気もするのですが、社会に影響を与える方法としては参考になります。
by plant (2010-02-19 17:37) 

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