SSブログ

『ハンセン病とともに 心の壁を超える』 [読書日記]

ハンセン病とともに 心の壁を超える

ハンセン病とともに 心の壁を超える

  • 作者: 熊本日日新聞社編
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
理不尽な隔離政策によってハンセン病患者の生きる権利を踏みにじってきた「らい予防法」廃止から10年、そして熊本地裁での劇的な国賠訴訟勝訴から5年の月日が過ぎた。ハンセン病問題はともすれば解決済み、と思われているかもしれない。しかし果たして社会は変わったのだろうか。ホテル宿泊拒否事件に見るように、長い年月の間に刷り込まれた偏見と差別は、いまだに根深い。また、無関心という心の覆いが、この問題と正面から向き合うことを妨げてはいないだろうか。そうした中、希望をもって「生きなおし」の道をさぐる回復者たちと、彼らに寄り添う隣人・若者たち、そして海外の患者や回復者を支援し、共に生きる絆を求める人々の姿を丹念に追う。国内最大の療養所・菊池恵楓園を中心に、現地ならではの血の通った取材をもとに綴られた感動の記録。

先週、インドのハンセン病問題について少し考える機会があった。例え治癒していても、或いは発症者が家族であって本人に罹患していなかったとしても、コロニーのような形で隔離されることによってされる側にもする側にも生じる「心の壁」(英語でよく使われるのが「スティグマ(stigma)」)をどう取り除いていけるのかがインドでも大きな課題であると有識者の方々、特にプネのS.D.ゴカレ博士から聞かされた。スティグマ対策は勿論政府の法制度整備も必要だが、最も重要なのはハンセン病患者とその家族、或いはコロニーを取り巻く地域の住民の意識を変えること、それに患者とその家族、コロニー住民の意識を変えることであり、それはその地域に密着したNGOのような組織の地道な活動に期待されるところが大きいと思う。

日本の場合はどうだったのだろうか、今どうなっているのだろうか――先月日本に帰っていた際、何かしら勉強できるような資料がないかと物色し、そこで見つけてきたのが本書である。

ここまで人権を踏みにじる強制隔離が行なわれていたのかという事実を知らずにいた自分が恥ずかしいと思った。なぜ知らずにいられたのかというと、発症した患者を他の市民の生活圏から離れた療養施設で隔離収容してきたからだ。今やハンセン病は完全治癒可能な感染症である。にも関わらず、強制隔離を可能にした「らい予防法」は1953年制定から1996年廃止に至るまで、40年以上も同法は有効だった。だが、「らい予防法」制定などこの隔離政策の一部に過ぎない。療養所が全国5ヵ所に開設されたのは1909年のこと。従って、隔離政策自体は90年以上にわたって行なわれてきたのである。

だから、子供の頃に発症して家族から引き離されて強制的に療養所に入れられ、還暦を過ぎてもそこから出られないという方が大勢いらっしゃる。家族にも会えない、生まれ故郷にも戻れない、強制隔離政策はそんな人々を大勢作った。勿論、退所することは今は可能である。しかし、社会が元患者を受け入れることができるかどうかは大きな課題である。2003年には入所者のホテル宿泊拒否事件が起きている。ホテル側の宿泊拒否は元患者に対する社会の偏見をストレートに反映した行為だといえるが、その後熊本・菊池恵楓園入所者がホテル側の謝罪を拒否したシーンがマスコミ報道されると、逆に匿名で菊池恵楓園入所者に様々な「差別文書」が寄せられたという。これなど、ハンセン病に対する市民の理解が十分浸透していないことの証しだろうと思う。

恥ずかしながら、僕は今でも日本がそういう状況であるということを、十分知らないでいた。ただ、ここ数カ月の新型インフルエンザ発症者とその家庭への日本社会の視線というのに、ハンセン病と通じるものを感じたのはおそらく僕だけではないだろうと思う。或いは、イラク人質事件の高遠さんや郡山さんの場合もそうだろう。お二人の後日談を聞いていると、自分だけではなく家族までが批判の対象となってろくろく外も歩けなかったそうだが、何故そのようなことになってしまうのかというと、大勢の人とちょっと異なる発言や行動を取る人、外見が異なる人に対して、日本人は差別意識が強いからではないかという気がする。それは政策の失敗によるだけではなく、日本人が本来そういうメンタリティを持っているからではないかとも思える。

こうやって外から壁が作られると、逆に元患者の側でも自ら壁を作ってなかなか外の世界に飛び出して行く勇気が持てない。「心の壁」は、差別する側にもされる側にもある。インドでもよく言われる状況は、日本でももっと酷い形で昔から存在し、今も存在しているというのを痛感させられる。

ただ、そうした暗い面だけが本書では紹介されているわけではない。今や療養所の入所者も高齢化が進み、平均年齢79歳というところもあり、ハンセン病問題が風化していってしまうことが懸念されるが、そんな中から、当事者の経験に耳を傾け、それを日本社会に蔓延る様々な差別、人権問題を考えるきっかけにしていこうとする若者や弁護士、研究者、市民グループが台頭し、さらには今も外国で強制隔離や不当な差別と直面するハンセン病患者やその家族、コミュニティの支援活動を展開する日本の若者も出てきた。そして何よりも、日本で強制隔離の当事者となった元患者が、70を過ぎて一念発起し、療養所を出て中国のハンセン病患者の支援活動に加わるというお話など、思わず涙が出た。

そして、インドとの関係で言えば、本書の著者である取材グループは、笹川陽平氏の活動を追ってインドでも取材をされているし、またアグラのハンセン病研究センター(JALMAセンター)初代所長の宮崎松記博士が本書の舞台となる熊本・菊池恵楓園の園長でもあったことから、JALMAセンターでの宮崎博士の功績については、所々で言及もされている。本書で紹介されているJICAのインドネシア・シニアボランティア和泉眞蔵氏も、1974年にはJALMAセンターにJICAの専門家として派遣されていたそうである。

ただ、少し複雑な気持ちも…。宮崎博士のインドでの功績は否定すべくもないが、それ以前の菊池恵楓園園長時代の記述の中で、1952年の「らい予防法」制定に繋がったのは、1951年に参議院厚生委員会に参考人として呼ばれた療養施設3園長が隔離強化を訴えたからだと書かれていた。この3園長の1人が宮崎博士である。本書はだからといって3園長に対してネガティブな表現はなく、淡々と事実だけが述べられているに過ぎないが、何故強制隔離の強化が訴えられたのかについては、もう少し調べてみないとわからない。

最後に、2001年5月の熊本地裁ハンセン病国賠訴訟判決の判決骨子からの引用を紹介しておく。
 判決は、「遅くとも昭和35(1960)年以降においては、ハンセン病は隔離政策を用いなければならないほどの特別な疾患ではなく、隔離の必要性はなかった」「厚生省は昭和35年時点で、隔離政策を変更する必要があったが、これを怠った厚生大臣には国家賠償法上の違法性と過失がある」と国の責任を指摘した。(中略)
 一方で、判決は政策によって、国家が生み出した差別感にも言及している。
 ハンセン病は病変が顔や手足など人の目に触れる所に現れ、身体的変形が後遺症として残る。このため、「業病」「天刑病」などと恐れられ、古来から偏見、差別の対象とされてきた。(中略)
 「戦前、戦後にまたがる患者収容の徹底、強化によって、国民はハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになった。その結果、ハンセン病に対する社会的な差別、偏見が増強され、治る病気になった後も、隔離政策が継続されたことによって偏見、差別が助長された」(p.160)

こうした差別感を克服していくのは容易なことではないと思うが、少なくともこうした問題の所在を知った僕自身は、そうした努力を怠らないよう心がけていきたいし、インドで多少ともハンセン病問題に関心を持った以上、日本がどうだったのかについてはもっと調べていきたい。

本書はお薦めです。新聞社の取材チームはこの問題を様々な角度からよく捉えておられると思う。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 2