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『お雇い外国人が見た近代日本』 [仕事の小ネタ]

お雇い外人の見た近代日本 (講談社学術文庫)

お雇い外人の見た近代日本 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/04/05
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
徳川幕府は慶応2年英・米・仏・蘭と改税約書を締結、日本は列国に対して灯台建設を義務づけられた。ブラントンが新政府お雇い灯台技師として日本に着任したのは戊辰戦争(明治元年)終結直後であった。爾来十数年、わが国は漸く封建制から脱皮し、欧米先進国を範とし、試行錯誤を繰り返しながらもひたすら近代国家を目指した。本書は政府役人と近代技術移植の先駆者との人間関係を通じて開化期日本の姿を描いた貴重な見聞録である。

前回のブログで、4月から自分の立場が変わったと書いた。もうシャカリキになって日本の近代史を勉強する必要もなくなったわけだが、それをやってる過程で気になった本もあった。仕事の本質的な部分とはほとんど無関係なので後回しにしていたが、次のステップに向かうためには逆に読んでおいた方がよいと思った。「専門家として開発途上国に赴任すると一体どのような場面に遭遇するのか」―――そんなの今さら何言ってんだと思う人も多いかもしれないが、「昔の日本もそうだった」という視点は結構重要かもしれない。

(ソネブロのAmazonリンクはなんか変で、発売日が「2020年4月5日」と表示される。今日じゃないか!って、そんなことがある筈ない。この本は、1986年8月発刊である。)

ブラントンは生粋の技術者で、それがために彼の日本滞在の記録も、ほとんどが仕事に関するものである。当時の日本人とのプライベートな交流の話はあまり出てこないし、ややもすると港湾整備だの灯台建設だののかなり技術的な記述だの、英国のパークス公使周辺で見聞したような当時の時事ネタのようなものも相当書かれている。ただ、手記のところどころで、日本人の担当役人(今風に言えば、技術協力のカウンターパートってやつか)のどんなところに違和感を感じ、そして衝突していたのかを記している。

いくつか引用してみよう―――。

◇◇◇◇

 しかし私の説明は日本人には効果はなかった。地味で比較的単純な仕事である一連の道路整備は、日本人の心に訴えるものがなかったのだ。鉄道のように国家の発展のもっと英雄的なシンボルを彼らは望んでいるのであった。(p.102)

 建造物が完成したと思ったら打ち壊されて、別の場所に再建されたり、線路の変更も何回となく行われた。橋梁は完成したと思うと間もなく補強工事が行われた。線路は思いつくまま曲がりくねって敷設され、その上に汽車を走らせることができるなどとても思えなかった。鉄道敷設の総経費は法外もなく巨額に上ったと伝えられているが、しかし総額について公式な発表はされなかった。
 このような悲観すべき状態をもたらした原因は、工事を主導するカーギルを首班としたヨーロッパ人技術団が、作業に当たって日本人役人たちの介入を許したためである。この種の工事に当然必要な、そして経済的な工事施工のシステムに全く無知な癖に頑固で、ひとりよがりで、許される限りの横柄に振舞う彼らが、工事の破滅を回避するための絶対的要素である強い指導権をとったためであった。(pp.106-107)

 我われの灯台業務用船は、日本人が乗組んだ蒸汽船が座礁したのを救助するため、就航以来六、七回も出動した。そんな場合は、どの船もろくに手入れもしてなく、全くひどい状態であった。機械は赤く錆びているか、また油やグリースでベトベトであった。甲板は砂磨きもしてなく、船室は汚くいやな臭がし、ロープや船具類は乱雑に山になって積上げてあった。
 実際に、外国人の発明品も日本人の手に掛かるとこんな状態になるのが普通であった。日本人が異国の船に乗組んで立派に任務が果たせるようになるまでにはある程度時間が必要であったのである。日本人が伝統の清潔好きの習慣をこの新しい場所に持込み、日々の課業の規律を身に付けるまでには、なお長い年月の訓練を要したのであった。(pp.119-120)

 大局的に見れば、日本政府のお雇い外国人の取扱いは後進国の不信と用心深い精神を表していた。それは雇い外国人の能力の発揮を妨げ、彼らの技術移植の任務の期間を、気の進まない活動の期間、あるいは絶え間のない抗争の連続の年月とした。彼らの才能が自由に発揮できる場所が与えられないばかりか、外国人たちは疑惑と用心深さで身動きもできない箍がはめられて、彼ら自身どうにもならなかったのである。およその場合、彼らは政府のトップクラスとは直接意志の疎通は図れなかった。彼らの行動は、その下の役人に統制され、監督されていた。細部の仕事の施行にも口をはさまれ干渉された。どんな改良の意見も下役人に提出しなければならなかった。そして、それが省の首脳に上達する価値があるか否かの判断は、その下っ端の役人に係っていたのである。(pp.179-180)

 日本に公立学校の制度がなかった当時では、組織のある役所の事務や陸軍や海軍の訓練等が日本人に近代的な規律に馴染ませる役目をした。そして俸給が得られる地位に就きたいという志望のみが国民の心に深く根ざして、職務上要求される厳格な日課についてはまるで無関心であった。日本人旧来の生活習慣には、灯台業務で特に必要とされる、時間の厳守と規則正しい日課の遂行とは相容れないものがあった。
 この現象は、上級の役人にも同様に見られた。灯台保守の業務は本来が単なる作業の繰り返しや反復でなく、厳格な注意と責務に対する自覚を必要とするものであるのに、彼らはそのような業務に欠かせない規律が守られていなくてもまるで無頓着で、職務の不履行を規正するために課せられた当然の罰則も履行しないのである。私が規則に反する行為に苦情を言うと、役人はかえって職務の怠慢をかばい、言い訳をするのであった。
 当直時に居眠りをしていたり、自分の持ち場を乱雑にしたままにしていたり、ときにはヨーロッパ人保守員を刀で威嚇したり、しばしば回転灯台の機械の停止に気づかず、そのため他の灯台との識別の機能を失わせたり、勤務中に酔っ払ったり、責任の違背を叱責されるとしらじらしい言い訳をする―――これらは日本人の灯台員に常時見られる職務怠慢や不履行の実態である。そしてこれを難詰するとバカげた言い訳をするのが常であった。(p.193-194)

◇◇◇◇

既視感が半端ない。これらは、現代の青年海外協力隊員や技術専門家が開発途上国に行って業務遂行しようとして直面する問題とものすごく似ているように思える。

そんなどうしょうもない当時の日本人と一緒に働き、それでもブラントンは当時のお雇い外国人の中でも出色の実績を挙げたのであるが、そこで用いた手法が、英国パークス公使への介入依頼であった。これなんかも、今で言えば日本大使館の大使や公使、あるいはJICAの所長あたりに依頼して上から落とすというやり方とすごく似ている。この手段を用いると確かに物事は動く。下役人は上官の命令には従うだろうから。でも、これをやられると下役人はヘソを曲げ、それ以後の仕事で何らかのしっぺがしが待っているかもしれない。そこまでのことはブラントンの手記にはあまり書かれていないが、きっとあったのだろうと思う。

今も途上国に行けばいろいろとストレスを感じることがあるが、昔の日本もそうだったんだというのを忘れないようにしたい。
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