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『ODAの終焉』 [仕事の小ネタ]

ODAの終焉: 機能主義的開発援助の勧め

ODAの終焉: 機能主義的開発援助の勧め

  • 作者: 浅沼信爾・小浜裕久
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: 単行本
内容紹介
本書は、現在のODAへの違和感と危機感を表明しようという目的で書かれた。開発の現場近くで仕事をしてきた著者達にとって、MDGやSDGは夢の議論のようでその非現実性に強い違和感を抱かざるをえない。ODA自体が存亡の危機にあるのではないかという危惧感さえ抱く。ODAの将来の方向性についての議論を呼び起こす一冊。

この本、僕の海外駐在期間中に発刊されていた。読んで内容を確認したかったのだけれど、3,456円もするのが気になって、どうしても購入するまでは至らなかった。勁草書房の本は高すぎて手が出ない。早めに確認できていれば、今自分が教えている通信制大学院の講座の参考文献ぐらいでは挙げておきたかったのだけれど、さすがに今年度シラバスにこれを挙げるのは断念した。

帰国してみて、①近所の市立図書館にはなく、②会社の図書室で借りようにも返却待ちが10人以上続いている人気の本だったので、順番がなかなか回ってこない(会社の図書室は貸出期間が3週間とちょっと長めなので、10人待ちというと1年ぐらいは順番が回ってこない感覚だ。)悶々としていたら灯台下暗し、僕の職場の隣りに座っている同僚が購入していて、お陰で貸してもらえた。

なんとなく世銀寄りの本だなと感じた。世銀がやっていることを針小棒大に捉えているところがあるような気もした。多分共著者のどちらかが世銀に近いのだろう。そこまで大きな話かと首を傾げるところもないことはないが、国連とその専門機関がやっていることには結構辛辣な論評が並んでいる点については、「国連嫌い」を隠さない僕にとっては溜飲が下がる思いである。


本書の構成だけ参考までに挙げておく。

 序章 ODAの新しいパラダイム
 第1章 ODAの半世紀とその実績
 第2章 途上国経済の発展
 第3章 ODAパラダイムの変遷
 第4章 日本のODAの展開
 第5章 迷走するODA
 第6章 途上国の成長戦略とODAの役割
 終章 ODAをどう再構築するか

うち、第1章から第4章までは、議論喚起の前提としてのファクトの整理に充てられている。このあたりはかなりまとまっているので、国際協力の講座の参考文献としてはかなり有用だと思う。その上で始まる第5章からの議論はかなり刺激的だ。

第5章ではMDGsの貧困削減レジームに噛み付き、さらに援助調和化の動きにも批判を試みる。第6章も同じような流れで、貧困削減レジームに対して、持続的な経済成長の支援におけるODAの役割を述べている。その上で最終章は、ODAにどんな役割がまだ残っているのか、著者なりの結論を述べている。

感想を言うと、MDGsをめぐる国際開発コミュニティの動きは、「国連外交官と国際的NGOの饗(狂)宴」だと一刀両断する著者の筆致には同意する。ニューヨークでレセプションがどうだ、ワインは何を出すか等々と、開発途上国の現場の現場で起きていることと煌びやかな社交場の雰囲気とのギャップはどうしても感じてしまう。そんな暇あるなら、他にやることがあるだろうと思ってしまう。そういう気持ちを、著者は代弁してくれていると思う。(この点では、僕は世銀も同じことをやっていると思う。)国際NGOも、大手はビジネスエスタブリッシュメント化していて、同じようなことをやっている。

ただ、SDGsについては、MDGsと同じ切り口でダメ出しするだけでは物足りない気もする。あんなに沢山の目標を並べて、しかも誰も結果に責任を問われない建付けにしていて、実現可能性などへったくれもないというのはその通りだと思うし、ある国がSDGs達成に取り組むのに、最も効果的かつ効率的な方法が何かを考え、提案すらしていない援助機関の無能ぶりの指摘はごもっともな部分もある。著者はSDGsなどMDGsと同じでダメだと言うが、脆弱な生活基盤の上での暮らしを強いられている人は依然大勢いるし、そういう人々ほど気候変動や災害の影響は受けやすいとも言われる。そこらあたりの議論はされていない。同じ土俵で議論もせずに、「あんなものは茶番だ」と一笑に付しているだけのように見えてしまう。

確かに、ODAの役割は相対的に下がっている。途上国への外国からの資金フローは、FDIや投融資、外国送金等の方が増えていっている。1990年代から2000年代にかけての途上国のパフォーマンスはODAのおかげだとは僕にも思えない。新しい技術やアイデアを持った社会起業家が、途上国で新規事業を始める方がよっぽど目立っている。

本書は副題で「機能主義的援助」という言い方をしているが、著者が新しいODAパラダイムとしてODAに期待される機能として、次の3つを挙げている。

 ①開発のための政策・制度作りの支援
 ②ハード、ソフト両分野でのインフラ構築の支援
 ③天災、人災及び地球環境事業等に対する支援

うち、③については、SDGsを一刀両断しておいて、最後にチラッと救済策として出してきた項目のように映る。この点についての議論はあまり深くは行われていない。でも、①と②については、両者を関連づけた上で、僕は大いに賛同する。

 われわれの考えでは、この「政策能力ギャップ」を埋めるのがODAに残された役割だ。この役割は「公共政策サポート」と言い換えてもよい。(中略)しかし、政策能力ギャップを埋めるのは並大抵ではない。最先端の設備やサービスの輸入だけではそのギャップは埋められない。また、先進国から途上国に対する単なる知識の移転では、このギャップは埋められない。また、今日援助機関が実施しているいわゆるキャパシティービルディングも、たぶんに皮相的な知識の伝達に終わっている。
 もしODAがこの残された役割を果たすとすれば、より大規模な政策・制度改革の経験の収集と分析、より組織化された短期・長期の教育・訓練プログラム、特定政策問題に関するセミナーやシンポジウム、実際に政策や改革を担当する途上国ポリシーメーカーとの定期的な政策対話、等々の試みがなされなければならない。(pp.180-181)

 先進国が持っている政策能力が、そのまま今日の途上国に移転できるわけでもなく、またそれは適切でもない。先進国群に中に存在する多様な政策・制度の改革経験を、今日の途上国政府に取って有用な形で組織化して移転できるようにするためには、開発援助機関の側の努力が必要とされる。すでに存在する技術協力は「政策能力ギャップ」を埋めるには不十分だ。また、政策能力ギャップを効果的に埋めるためには、能力移転をファイナンスに内包させることが必要になる場合もある。「開発プロジェクト」概念が全盛のときには、開発プロジェクトの中に技術移転や経営資源の移転が埋め込まれていると考えられていた。いわゆる「ファイナンス・プラス」の考え方だ。政策能力移転も同様に、「ファイナンス・プラス」のプラス要因として、政策能力移転を考えることも出来る。(p.183)

 重要なのは、途上国政府が、開発援助・支援・協力についてもっと主体的になることだ。たとえば、ある分野の開発を考えるときに、海外からの支援が必要と判断されたとする。その場合、ODAの受け取り手の途上国政府が、どのドナーがその分野で当該途上国にとって必要な優れた技術や経験を持っているか、またファイナンスが必要になったときにそのドナーに必要なだけの資金力があるか、等々の判断したうえで、開発支援の要請を行うようになるのが望ましい。その判断のためには、途上国政府は多数の候補となる先進国にミッションを送り、自らの判断で最適なドナーを探す努力をすべきだ。歴史的な例としては、新生日本は明治4年(1871年)に西欧諸国に岩倉使節団を送っている。(p.192)

 われわれが提唱する新しいODAパラダイムは、途上国の成長と貧困削減を支援するためには、大言壮語を止めて、現在途上国経済が直面する深刻な問題で、先進国の開発援助機関やエキスパートが貢献できそうなものを選び、それを支援しよう―――「アクションを起こそう。もう議論はたくさんだ!」―――というのがその趣旨だ。新しいODAに必要なのは、途上国の政府が持っていない技能や知識を、これら機関がエージェントになって途上国に移転する努力をすることだ。(pp.198-199)

これら引用したポイントひとつひとつについて、いちいちコメントを差し挟むつもりはない。でも、後になって振り返ってみれば、僕が直近の任国でやっていたことにも通じる指摘事項が多くて、僕がやったこともあながち間違いではないと確認できたことが、本書を読んでの最大の収穫だったかなと思う。


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