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『歴史街道2014年11月号』 [読書日記]

歴史街道 2014年 11月号 [雑誌]

歴史街道 2014年 11月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/10/06
  • メディア: 雑誌
内容紹介
「黒田官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ。その他の九州大名の島津義弘・鍋島直茂・立花宗茂はいずれも大坂方なので、結束して官兵衛と清正を中心に東上すれば、中国地方の軍勢も加わって十万騎にはなる。これだけの大軍で戦えば、徳川家康はひとたまりもない…」。黒田長政はそんな内容を遺言状に記しました。慶長5年(1600)、天下分け目の決戦に向け風雲急を告げる中、遙か九州で情勢を虎視眈眈と窺っていたのが、「天下の軍師」黒田官兵衛です。東軍に与した官兵衛は寄せ集めの兵を率い、九州を席捲。さらに広島を奪う壮大な計画を立てていました。果たしてその狙いとは。官兵衛が最後の戦いで目指したものを探ります。第二特集は「Q&A 祇園のしきたり」です。

11月の足音が聞こえる頃になると、例年、NHK大河ドラマは既に最終回に向かってドラマが終息方向になり、面白さが失われていくことが多い。既にその主人公絡みのおもだった出来事は終わっており、残り火のような緩い話が続き、しまいは主人公が亡くなるところで終わるので、10、11月頃は見ていてもあまり面白くない。

10月に入ったばかりの頃、今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』は、50回シリーズの第40話が終わったばかりだった。残りが未だ10話もあるとしたら、最終回は12月20日。随分引っ張るなというのが印象だ。昔やってた『太平記』なんかは、12月に入った途端に最終回で、後は総集編とかで引っ張って、年末を迎えていた。

では『軍師官兵衛』のあと10回の中で、何が描かれるのか―――。今後の話で中心となるのは関ヶ原の合戦だと思うが、これには官兵衛は参戦せず、息子の長政が徳川家康の与力として同行している。官兵衛はその頃何をしていたのか―――それが『歴史街道11月号』の特集テーマだった。

結論から先取りすると、官兵衛は当時豊前中津城で「黒田如水』と名乗って隠居生活を送っており、家康に同行して会津上杉征伐に向かっていた長政に代わり、国主の留守を預かっていた。しかし、秀吉没後の政治情勢が家康と石田三成との対立関係が鮮明になるにつれ、九州の黒田家は不利な立場に追い込まれる。九州では、肥後の加藤清正と豊前の黒田を除いて、全ての大名が石田三成の西軍側についている。そこで、先手を打った官兵衛は、清正と連携し、九州の西軍諸将の領地に侵攻を開始する。関ヶ原の合戦が行われていたのとちょうど同じ頃、黒田軍は豊前で三成の刺客・大友義統軍と激突、「九州の関ヶ原」ともいえる天下分け目の合戦を戦い勝利する。その後、家康から停戦の命令が出るまでの約2ヶ月弱の間、黒田・加藤連合軍は九州を席巻し、残るは南九州の島津だけというところまで来ていた。

家康が石田三成との合戦にてこずっていたら、或は関ヶ原の戦後処理にてこずっていたら、九州は黒田・加藤連合軍によって統一されていたかもしれない。そして、明確に東軍側につかず、中国地方から畿内に東上してくるようなことがあれば、ひょっとしたら家康の天下取りも一時的なものに終わり、黒田官兵衛が天下人に君臨する結果になっていたかもしれない―――ここの部分の解釈についてはいろいろな意見があり、当時官兵衛が何を考えていたのかが焦点となっている。歴史の面白さは、その考察を巡って想像を膨らませることができる点にある。

ということで、官兵衛の九州席巻は終盤の『軍師官兵衛』のヤマだ。ドラマがそちらに展開する前に読んでおこうと思い、先週富山に仕事で行った際に書店でつい購入、むさぼるように特集記事だけを読んだという次第。こういう歴史雑誌の特集記事になると、複数の執筆者の間で記述内容の調整がされていないので、書かれていることがくどいと感じるところもあったけれど、同じことを何度も書かれると、オジサンの記憶にもちゃんととどまるのでよしとしたい。これで今後のドラマが楽しみになってきた。

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