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『サッカーボールひとつで社会を変える』 [仕事の小ネタ]

サッカーボールひとつで社会を変える ‐スポーツを通じた社会開発の現場から ‐ (阪大リーブル)

サッカーボールひとつで社会を変える ‐スポーツを通じた社会開発の現場から ‐ (阪大リーブル)

  • 作者: 岡田千あき
  • 出版社/メーカー: 大阪大学出版会
  • 発売日: 2014/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
内容紹介
近年、開発の文脈における「スポーツ」には、他者との関わりを生み、社会性を身につけること、さらには、コミュニティや国造りにも影響を与える包括的でダイナミックな役割が付与されつつある。本書では、とくに「サッカーのもつ力」に着目し、個人、地域、国などへの具体的な貢献に関する事例を紹介し、サッカーを通じた「人と人とのつながり」や「コミュニティ形成」、「豊かな市民社会」の実現を提言する。

2020年の五輪開催地が東京に決まってから間もなく1年になる。他の立候補地との比較において、何が何でも東京開催というほどの熱の入れようは僕にはなかったし、震災復興を言うなら、東京ではなく別の都市でも良かったのではないかという気もする。妻ほど激烈な反対は公言していないが、僕自身も心境としては複雑である。さらに、東京五輪決定後、安倍政権が打ち出した「Sports for Tomorrow(SFT)」という国際貢献策についても、若手スポーツ人材を途上国に派遣してスポーツ振興に貢献させるという発想の安直さには首を傾げたくなった。

途上国の開発に関わっている者にとって、スポーツというものの捉え方には常に悩ましいものがある。その国の経済や社会の開発への貢献度を考えれば、スポーツ振興などよりももっと先に取り組まねばならないことはいっぱいあるし、スポーツが子どもの心と身体の成長だけでなく、礼節や社会貢献意識等につながると主張する人は多いけれど、そうした主張自体が多分に観念的で、それを実証した研究成果についてはあまり聞いたことがない。理解はするけれど、国が予算を投入しなければいけない分野なのかというのは、僕にはよくわからない。

僕らが別の仕事で海外に駐在している間、オフタイムを利用して地元の人たちにボランティアとして剣道でも教えようというならまあわからないでもないし、それがその国のスポーツとして大きく開花するというなら凄いことだと思うが、スポーツ指導を仕事とする若者が途上国に派遣されて行っても、時間があれば練習に来るが普段は生活が大変だからなかなか来れないという、煮え切らない現地の若者たちとの葛藤に、疲れてしまうんじゃないかとかえって心配だ。

さて、そんな中で発刊された「スポーツと開発」をテーマとした珍しい本を今日は紹介してみたい。

著者は「スポーツと開発」分野では国内でも最もよく名前を聞く研究者である。このテーマについて、国際社会ではどのような取組みが行なわれていて、どの国や国際機関がどのような援助を行なっているのか、詳しく情報収集され、その結果を時々論文として発表もされている。でも、本書の場合は、研究というよりはルポに近い印象だ。所々でサンプルデータを使った回帰分析とか、スポーツに関わる人々へのライフヒストリーインタビューとか、研究者っぽいところは垣間見えるものの、全体としてはルポだ。

また、著者はどちらかというとスポーツ全般を見ておられるのかと思っていたが、本書は全体を通じてサッカーを中心に取り上げており、元々サッカーに造詣のあった研究者なのかもという気がした。そして、これだけファンも増えたサッカーについて、世界各地でこんなことまで行われていたのだというのを知り、驚かされることが多かった。

ホームレスだけで構成されたチームが参加して毎年行われるワールドカップ大会があるなんて全然知らなかったし、ましてやそれが駅前でホームレスの方が売られている雑誌『ビッグイシュー』と関係していたなどという繋がりについても、恥ずかしながら全然知らなかった。(それと知ってしまった以上、『ビッグイシュー』もたまには買ってみようかという気持ちにさせられる。)また、カンボジアの観光地シェムリアップにあるホテルがサッカーリーグを作り、各ホテルの従業員によるチームを結成して、毎年リーグ戦を戦ってそれが既に10年以上の歴史があるというのも意外だった。さらには、ジンバブエのHIV陽性の女性たちによるサッカーリーグとか、そんなのがあったのかと驚かされる。それで参加者の行動や意識だけでなく、そうした競技者たちの姿を見守っている企業や地域の人々の目も変わっていく姿をうまく描いている。

そうした事例を取り上げることで、著者はこう述べる。
 本書に挙げた事例の共通点は、外部からの援助ではなく、問題を抱える当事者の声をもとに始まった活動であることである。従って、政府機関や国連関連機関、NGOといった明確な活動主体が見えづらく、当然ながら、大規模な援助は入っていない。このような金銭面での支援が行われていない草の根での活動にスポットライトを当て、寄り添い続ける形の援助を行うことは、「スポーツを通じた開発」のみならず他の分野においても開発協力の理想といえるものであろう。今後もますます、多様化していくこの社会において、個人の幸福を追求していくことが、利害の対立や人間関係の軋轢を生むであろうことは容易に想像がつく。その中で、社会的弱者を含めた「人々の声」を最大限にすくい上げ、人々の内発性を凝集する「ハブ」としてスポーツが果たす役割はますます大きくなるのではないだろうか。(pp.262-263)

以前、大きなスポーツ競技場の建設を支援することの是非について、日本陸連にいる知人から、スポーツを通じた人間形成や人格形成を考えていくならそれもありなんだよと聞かされたことがある。そういう立派な競技場で試合に出ることを目指すこと、実際にそこで競技をやって、そこからさらに飛躍していくことが、その後の人生におけるその人の生き方にも大きな影響を与えうるというのがその方のおっしゃりたいことだったと理解している。著者の言う「寄り添い続ける国際協力」という考え方からすると、箱モノを作って相手に引き渡してそれでおしまいということではなく、競技場の運営とか、スポーツ団体組織の強化とか、いわゆるマネジメントの面からはさらに補完的に取り組んでいった方がよい国際協力の姿もあるということなのだろう。

また、著者はそれでもSFTのプログラムによる若手スポーツ指導者の海外派遣には賛成の立場を取っておられる。それは著者の立場からは致し方ないところもあると理解するものの、寄り添い続ける国際協力の在り方が、単に日本からの人材派遣だけというわけでもないのではないかとも思う。向うの国の指導者や団体関係者を日本に招聘して、スポーツ振興から競技運営に至るまで、日本でのあり方をじっくり見てもらう方が、実は効果的なのではないかと僕は思っている。

その根拠の1つは、僕がインドで「ガラパゴス化」した剣道を見たからで、せめてそこで「グル(先生)」などと名乗って生徒からカネをとって剣道を教えているのであれば、本場日本の剣道の稽古の進め方をちゃんと見ておくべきだと考えたからであった。しかも、できればその見聞の成果を独り占めさせないようにするような仕掛けも必要になる。2人いないとできないような武道や、バレー、野球、サッカーなどの団体競技は、1人指導者を現地に送り込むよりも、現地から何人かを受け入れて日本国内で見せる方が学習効果が高いと僕は思う。それに、そうやって日本に来た人々と日本で草の根レベルでそうしたスポーツにいそしむ人々とが交流できれば、日本にとっての人材育成にもつながる。

韓国・仁川でアジア大会がちょうど始まろうとしているところである。日本人選手の活躍が期待される各競技において、普段見ることのないアジアの国々から出場してきた選手たちがどんな活躍を見せるのか、また彼らがどのような練習環境の中で競技生活を続けているのか、そんなことにも思いをはせながら、試合を見てみたいと思う。

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