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ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む [読書日記]

ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者

ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む―4万5千キロを競ったふたりの女性記者

  • 作者: マシュー グッドマン
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2013/10
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
ネリー・ブライとエリザベス・ビズランド。19世紀、ジュール・ヴェルヌの小説を現実のものにした記者がいた。近代技術の黎明期、蒸気船、蒸気機関車を乗り継いで、世界を巡ったジャーナリストの物語。
去年、中野明著『グローブトロッター』という本をブログでご紹介した。僕が去年読んだ本の中でも、ノンフィクション部門では1、2を争う面白さで、幕末から明治の頃に日本を訪れた外国人の本邦滞在中の行動や出来事がいろいろ書かれている。当時の日本とそこで暮らしている日本人のことを、外国人がどう見ていたのか、言葉が通じない中で直面するコミュニケーション上の困難をどのように乗り越えていったのか、ページをめくる手がなかなか止まらなかった。

この本で登場する外国人旅行者の何人かにはブログでも言及したが、実はこの記事の中で紹介しきれなかった女性旅行者が2人いる。いずれも米国の女性ジャーナリストで、1人はペンシルベニア出身のネリー・ブライ、もう1人はルイジアナ出身のエリザベス・ビズランドである。2人は、ジュール・ヴェルヌが作品『八十日間世界一周』の中で主人公・フィリアス・フォッグが達成した、長距離交通機関の定期便を乗り継いで打ち立てた80日間での世界一周の記録が、実際にはもっと縮められるのかどうかを試すという新聞社・雑誌社の企画に、それぞれ東回り、西回りで挑んだ。時は1889年11月、飛行機などない時代の話である。

発案者は25歳のネリー、この企画を当時働いていたニューヨーク・ワールド誌に持ち込み、販売部数低迷のテコ入れ策として、編集長もこれに乗った。これに対して、雑誌コスモポリタンも、ネリーと競わせるために、当時同誌に度々寄稿をはじめていたエリザベスを急遽呼び出し、慌ただしく旅に出発させた。ネリーがニュージャージー州ホーボーケンの港を出航して、東回り航路の旅に出てからわずか9時間後、エリザベスはニューヨーク・セントラル駅を出発し、先ずは大陸横断鉄道で西に向かったのである。

ネリーは鼻っ柱が強くて行動派の、いかにもアメリカン・ガール(当時の)という風貌であったのに対し、エリザベスは南部の名家のお嬢様で、いかにも「南部美人(サザン・ベル)」といった美貌の女性だった。ネリーはニューヨークで認められるため、素性を隠して潜入取材を敢行して悪をあばくといった新聞記事を幾つも書いて社会的に認知されるようになっていった。一方のエリザベスは、文学を愛し、雑誌で抒情的なコラムを書くのを得意としていた。ニュー・オーリンズで雑誌社の編集者だったラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の下で働き、さらに女性記者として認められたいとニューヨークに出てきた。

こうした出自も性格も対照的な2人の女性が、スピード世界一周を競ったのである。(勿論、先発したネリーが、エリザベスの西回り世界一周挑戦について知ったのは、旅程の半分以上を消化した、香港⇒横浜の汽船の中でのことだったらしいが。)

これだけ読んでも結構面白そうでしょう?

結論から言うと、2人はフィリアス・フォッグの記録は打ち破った。勝ったのはネリーで、エリザベスは欧州大陸での「謎の旅行代理人」のミスリードと、それによって予定していた定期便に乗船できなくなり、アイルランドからスピードの遅い汽船を使わざるを得なくなった。おまけに1月下旬の大西洋は大荒れで、航海にも予想以上の時間を要してしまったのである。ただ、ネリーも、サンフランシスコ上陸後、1月の中西部・ロッキー山脈の大雪で鉄道が不通となり、ワールド誌の依頼で南部の鉄道会社が臨時便を走らせたことでニューヨーク帰還を果たしており、厳密に言えば「定期運航便のみを利用」というルールには抵触する。しかし、これによってワールド誌は販売部数を飛躍的に伸ばし、ネリー・ブライの名も、全米に広く知れ渡るようになった。

こうしてレースの結末を書いてしまったとしても、この2人の旅はとにかく面白い。女性が1人で旅行できるのだから、当然ながら世界中に英語を話せる人が既に大勢いたということになる。大英帝国の影響の広さが垣間見えるが、これに対してネリーは英国嫌いに徹してアメリカの良さをさんざん手記に書き記しているが、エリザベスの方は大英帝国の懐の広さに素直に感動し、賛辞を送っている。

また、先にご紹介した『グローブトロッター』が外国人旅行者が日本をどう旅したのかが描かれている本だったが、本書で描かれたスピード世界一周の中では日本立ち寄りはその旅程のほんの一部でしかなく、ネリーの旅の中では言及すらほとんどされていない。旅も後半で、残りの日数を勘定して、太平洋を横断するのに何日かかるのかで焦っていたのだろう。一方のエリザベスは北米大陸を離れて最初に立ち寄った異文化であったからか、横浜寄港中の見聞録が結構残っており、実際レースを終えて、実業家と結婚した後、もう一度日本を訪ねている。

そうしたこともあって、個人的にはエリザベス・ビズランドの方に肩入れしながら、旅の展開を読んだ。

世界一周の所要日数を競うレースでは両者の勝敗は決したものの、その後の人生をどう生きたか、その顛末を見てみると、どちらがどうとは言えない気がする。長い人生の中では一瞬の出来事であったが、特にネリー・ブライはそれによって名声を得て、全国に名を知られるようになったことで、その後の人生には大きな紆余曲折があったようだ。また、エリザベス・ビズランドも、夫をわりと早く亡くしている。

総ページ数605頁、本文だけでも550頁近くもあり、世界一周並みに読むのに時間もかかった。それでも展開が面白くて仕方なかった。19世紀の後半、南北戦争が終了してまだ十数年しか経過していないこの頃に、ニューヨークには摩天楼が形成され、大陸横断鉄道は開通しており、世界は線路と定期航路で繋がっていた。インドのシーク教徒は香港やシンガポールで言うことをきかない苦力のコントロールのために既に動員されており、トーマス・クック社は既に世界をまたにかけた旅行代理店となっていた。当時の世界の様子を垣間見ることができる世界一周の旅の様子をまとめるのに、500頁以上を費やしたからといっても文句は言えない。

それほど魅力的な、女性記者2人による世界一周レースである。

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