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『国家の退場』 [読書日記]

国家の退場―グローバル経済の新しい主役たち

国家の退場―グローバル経済の新しい主役たち

  • 作者: スーザン・ストレンジ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/11/20
  • メディア: 単行本
出版社/著者からの内容紹介
アジア通貨危機に始まる世界経済の混乱に対する,各国政府の政策対応とその効果に見られるように,グローバル経済において国家の権威は衰退している.この本は,その衰退の原因を分析するとともに,国際官僚機構・超国家企業・国際カルテル・国際監査法人・マフィアなどに代表される「新しい権威」の実態を明らかにする.
今、出張でフィリピン・マニラに来ている。海外出張に出る際には何冊か本を携行して行きと帰りの機内で読もうと試みる。たいていは図書館で借りてきていた軽めの文庫や新書、ジャンルとしては小説というのが多いのだが、今回は思うところがあり、自宅の書棚に眠っていたスーザン・ストレンジの著書を引っ張り出し、行きの機内で読み始めた。300頁を超える大著だが、必要だったのは理論枠組みの確認だったので、序章と第1部「理論的基礎」を先ず読み、あとは巻末の索引によってキーワードが出てくる箇所だけを拾い読みするという手法をとった。

今回の出張では、軍事や外交に根差した国家の安全保障に対し、人ひとりひとりにフォーカスした「人間の安全保障」を改めて考えてみるよい機会となった。フィリピンも主要加盟国の1つとなっているASEANという地域連合の枠組みが存在し、しかも2015年のASEAN共同体への移行が公式に宣言されている中で、共同体の中で埋没しがちな人々の生活の安定と安寧をどう保障するのかはこの地域の大きな課題だと思う。極端な例えだが、身体や健康に不安のあるお年寄りを支えてきた末端の公共サービスが市町村合併の結果どんどんカットされ、社会的弱者ほど苦境に立たされるという日本の2000年代の状況というのがASEAN共同体についても想起される。

そこで、人々の生活への脅威となる地域共通の課題に対して、今の国家主権の枠組みの中で取り組めることは何か、その取組みの担い手となるべきなのはどの点については政府なのか、どの点については非政府アクターなのか、地域統合の流れの中で埋没しがちな「人間の安全保障」をいかに統合の政策アジェンダの中に押し込み、主流化できるかを整理していこうとする民間シンクタンクグループの取組みがなされている。今回の出張では、そんな取組みの一端を垣間見る機会があった。


ASEAN共同体の形成は、言ってみれば地域統合の流れの中での国家の後退だろう。これに対して人間の安全保障も、「国家主権をバイパスするものではない」と言われているけれど、国と国の境界を越えて人にフォーカスし、恐怖や欠乏から解放するために必要な保護とエンパワーメントを提供していこうとするものである。最近はそうではないけれども、ミャンマーの軍事政権の場合、国民ひとりひとりの保護やエンパワーメントをいかに周辺国が指向しても、ASEANの「不介入」の原則に抵触してなかなか有効な手が打てなかっただろうし、ミャンマーも加盟しているASEANのような場で「人間の安全保障」を公式文書の中で唱えるわけにもいかなかったのではないだろうか。従って、やっぱりここでも「国家の後退」は起きていると思わざるを得ない。

本書の中から数ヵ所引用することで、著者が言わんとすることの一端をご紹介してみたい。

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国家はいぜんとして国際政治経済における重要なプレイヤーであるとはいえ、他の非国家的諸勢力や権威に対して次第にその座を譲り渡さざるをえない(p.v)

そこでの目的は、「だれが利益を得るのか」という、より広範で社会学的な問いを発することによって、国家中心的で、戦争と平和のみを扱い、外交政策だけに焦点を当て続ける既存の国際関係論研究に対して、距離を置こうとするものであった。どの国、どの国民が?と単に問うのでなく、国境を超えてどの階級が、どの労働者が、また男か女か、老人か若者か?といった問いである。(p.vi)

だれが何を得るのかを決定するときには、多種多様な非国家的権威―企業に限らない―が政治的プレイヤーになるというのが、本書で展開した考えであった。(p.vii)

政府間で協調的になされている決定ではなく、金融、産業、貿易の領域で、戦後を通じて私企業によって統合されてきた世界市場という非人格的な勢力が、社会・経済への究極の政治的権威が属すると想起されてきた国家よりも、今ではより強力になっている(p.18)

かつて国家が市場の支配者であったところでは、今や市場が多くの重要な問題に関して国家の政府をさしおいて支配者となっている。そして、国家の権威が衰退しつつあることは、パワーが国家からその他の機関や団体へ、また地方や地域の機関へと次第に拡散していること、そして構造的パワーをもつ、より大きな国家とこれをもたない弱い国家との間の非対称性が、しだいに強まっていることに反映されている。(p.18)

民族的ないし文化的な自律への願望は普遍的なものだが、統合された世界市場経済においてそのような願望を満たすための政治的手段は存在しない。(p.20)

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本書は、原著の発刊年が1996年という、1997年のアジア通貨金融危機の前だったこともあるのだろうが、「国家の後退」という言葉で描かれている世界が、産業や金融の発展にかなり依拠しているという印象を受けた。国家-市場間のパワーバランスをシフトさせた要因として、著者は技術変化の加速とその技術変化に必要な資本コストの急増を挙げている。これは著者のそれまでの著書でも展開されていた(であろう)論旨であり、当然の流れだと思う。そこからは、グローバル金融資本主義に警鐘を鳴らし、そして何でも民営化して市場に委ねようという方向性に懐疑的な著者の姿勢が窺い知れる。

政治経済学者らしく、「国家か、市場か」という対称軸で見ているから当然といえば当然だが、本書ではあまりNGOという言葉が出てこないし、ましてやUNDPが初めて「人間の安全保障」という概念を提示してから2年ほどしか経過していないので、この時点ではあまり人にフォーカスするという意識が著者自身にもなかったのではないかと思う。政治経済学者が今でも「国家」と「市場」という枠組みで物事をとらえられているのかどうかはわからないが、いささかの古さは感じた。

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