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『社会人類学』(4) [読書日記]

『社会人類学』(1)
アジア社会を比較・解明。アジアを構造から理解する中根人類学の総決算世界人口の過半を有する広大なアジア。その各社会はどんな顔をしているのか?カースト・宗族等の根強い組織基盤をもちながら、新たな事態に対応していくインド・中国社会。恒久集団がなく、ネットワークを集積させ、変移性に富む東南アジア社会。集団が閉鎖的になりやすい特異な日本タテ社会。多様なアジア社会を比較し、その構造を解明した名著。

今回もネットワークに関する記述からの引用である。4回にわたってお送りしてきた『社会人類学』のご紹介も、今回を以て終了としたいと思う。

インドでは同類集団(カーストとか、同一分野の学者たちとか、エグゼクティブのようなプロフェッショナル・グループ)の中では、メッセージの伝達機能はすばらしい。しかし、教授と事務員というような類別集団が異なる関係をとおすとしばしば齟齬をきたす。このためであろう、インド人はこのようなタテの関係においては常に直接相手にオーダーを与えている。Aと類別集団を異にするBを通してCへメッセージを伝えるということは常にリスクをともなうものである。このことからしても、メッセージの伝達者は同じ集団成員である場合と、そうでない場合とは大きく異なることがわかるのである。(中略)このことは、必ずしも情報の流れ、量が貧しいということではない。ただ、AからCへAが伝えたいと思う内容がそのまま、そして適切な時間内に伝わりにくいというだけあって、ネットワークのあり方からしても、さまざまな情報は常に豊富に流れているといえよう。却って排他的なタテ関係や閉ざされた集団というものがないから、相当広範に情報が交流しているはずである。その情報の軽重の判断、選択は各個人にまかされているから、さまざまな変形・増幅・脱落をともなうことも確かである。こうして情報がそのままの形で徹底しないということはマイナスであろうが、特定情報にひきずられないという点ではプラスであろう。(pp.364-365)
ちょっと前に、インドでの技術指導の経験がある日本人の方から、こんなエピソードを聞いたことがある。南インドのある農業試験場での話、その人が、現地で自分が技術指導の対象としていた試験場のインド人カウンターパートである研究員に、畑の手入れの仕方、桑の木の枝の剪定の仕方について、具体的にアドバイスした。するとこのカウンターパートは、「わかった」と頷き、なんと現場で働いていた作業員に命令して、そのアドバイスを実践するよう伝えた。「自分でやってみないとわからないのにね…」――指導に当たっておられた日本人専門家の方は苦笑いしながら述懐していた。

このブログでも時々紹介していたかもしれないが、インドでは、「命令する人」と「命令される人」がはっきりと分かれる。別の言い方をすると、「監督する人」と「実際に作業をする人」が分かれているということである。6月にバンガロール郊外の製糸工場を訪ね、そこのオーナーにいつから製糸業に関わるようになったのかと尋ねたところ、「子供の頃から」という答えが返ってきた。親子二代にわたって製糸業を営んでいるんだなと思い、そういう場合はどんな作業から覚えていくのか興味があって、子供の時に最初にやり方を覚えさせられた作業は何だったのかと質問してみた。すると返ってきた答えは意外や意外、「作業の監督の仕方」だと言われた。要するに、オーナーの子供はやはりオーナーで、現場で繰糸機を使って糸を繰るような実際の作業を一度も経験することなく、監督業を継承するというのだ。このことは農家でも一緒で、僕が現地でインタビューした40戸以上の養蚕農家のうち、実際に自身で桑園や蚕室などでの作業に従事しているという人は半分ぐらいに過ぎない。あとの半分は、人を雇い、自らは農場経営に特化するという、農場内での分業を実践していた。

著者はこうした異なる階層間での情報伝達は「命令」という手段で行なわれているとポジティブに受け止められている。しかし、先述の日本人専門家を含めて多くの日本人から聞かされるのは、「インドでの技術普及に「上意下達」はあまり期待できない」ということである。「命令」という手段で伝達される情報であればまだいいが、上の階層でどのような意思決定がされたのか、ある組織において上層部がどのような組織決定をしたのかについては、下の階層に行けば行くほど知らされない。そうした意思決定、組織決定の結果として、「今後はここはこうするように」という具体的な指示・命令に形を変えて伝達されているに過ぎない。

つまり、組織全体で情報共有を徹底させたいと思ったら、下層に位置する人も同じ情報共有の「場」に同席させて議論や組織決定の成り行きを見守らせるといった工夫が必要となる。

また、以上の考察からも容易に想像がつくと思うが、情報は「命令」という形で「上から下へ」流れることは想定されているものの、「下から上へ」の情報は流れない。「命令」を下す側が、現場からのフィードバックに耳を傾ける機会というのがあまり想定されていないのではないかと思われるのである。現場を見て来ていない超エリート官僚が「自分は現場に行かなくても現場で何が起きているのかはよく知っている」と仰るのには毎回辟易するのだが、データのような形では確かに情報掌握されているのかもしれないが、なぜそういう結果になったのかについて、現場で実践されている作業の現実を踏まえた分析はあまりされていないのではないかと僕には思える。ここにも何らかの「仕掛け」が必要となってくる。

こういうことを予め知った上で現地に行けたらよかったのに、とは現地で技術指導に従事した日本人の専門家の方々の多くが指摘されているポイントだ。残念ながら僕自身も中根の著作を読んで「なるほど」と納得したのはインドでの駐在員生活を終えて帰国して1年も経ってからのことだから、こうした専門家をインドに送り出す、あるいは現地で受け入れるアレンジをしたような人たちが、こうした文化人類学に根ざした有用な現地情報を、赴任してきたばかりの日本人技術者に提供できる余地も相当に限られているのではないかと思う。折角培ったインドの情報が、人事ローテーションによって全くインドと関係のないような部署に異動させられることでその大半が失われるというのは悲しいことだ。
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