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『タテ社会の力学』 [読書日記]

タテ社会の力学 (講談社学術文庫)

タテ社会の力学 (講談社学術文庫)

  • 作者: 中根 千枝
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/07/13
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
日本では法よりも社会的規制によって人々の行動は律される。『タテ社会の人間関係』で著者が提示した「タテ社会」というモデルを動かすメカニズムを、全人格的参加、無差別平等主義、儀礼的序列、とりまきの構造など、興味深い事例で解明、日本社会のネットワークを鮮やかに描き出す。外的変化に柔軟に対応する軟体動物的構造の再認識に国際化の扉は開く。
先日、『インド現代政治』という本についてご紹介したが、今もう一度改めてインドという国と社会を見直すとしたら、やはり中根千枝氏の著書を避けては通れんだろうと思い、市立図書館で中根氏の一連の著作をまとめ借りしてきた。最も有名な『タテ社会の人間関係』はあいにく誰かが借りていたので、その続編ともいうべき『タテ社会の力学』から読み始めた。(本当は、『タテ社会の人間関係』を読んでから『タテ社会の力学』を読んだ方が中根理論をより理解できると思うのだが…)

読み始めてすぐに、これはインドのことではなく日本社会について描かれた本だということに気付いた。それはそれでいいと思う。実は先週研究会に出席するために英国に出張した際、英国の個人主義と日本の集団主義の形成プロセスの比較を行なった論文の発表を聞いた。こういう日本の歴史が多少絡まっているような論文にはそれだけでも親近感を抱いてしまうが、今一つよくわからなかったので少し自分で勉強してみた方がいいと思った。

それともう1つの動機は、日本人が海外に飛び出して、外の社会で適応できるのかどうかというところについて、僕自身よくわからなくなっているところがあるからだ。インドに駐在していた頃、ボランティアとしてインドに渡ってきた日本人の若者を何人も見た。最初は協調行動がなかなかとれずに「大丈夫かな」と思って心配していた若者がその後1年で急成長を遂げるのも見たが、逆に来たばかりの頃はまったく問題もなくそつなく仕事も生活もこなしていたのにその後突然無気力になってしまい、急遽日本に帰ってしまったという若者もいた。何が良かったのか、何が良くなかったのか―――僕はこの2つのエピソードを目の当たりにして、自分の人を見る眼にかなり自信を失くしてしまった。これから海外に送り出す若手のスタッフに対しても、どのような性格や思考の人にはどのようなリスクが潜在的にあるのか、実際に現地社会にうまく適応できなかった場合、どのような解決策があり得るのか、そんなことを本書を通じて考えてみたかった。

その結果どうだったかというと、なんとなくはわかったような気もしたが、必ずしも理解したとは思えなかった。おそらく著者の膨大なフィールドワークに基づいた暗黙知の部分が大きいのだと思うが、もう少し具体的な事例に言及してそれに即して著者の理論枠組みを説明してくれていたら、もう少しわかりやすい本になっていたのではないかと思う。

だから、読み始めの際に僕が抱いていた問題意識に対して、本書がストレートに答えを提示してくれたかと言われるとちょっと難しい。書かれていることは現在の僕達にもかなりの部分は当てはまるとは思うが。

そんな中で興味深かったのが次の記述だ。

日本人は自分たちの社会が力学的に規制されているということを、無意識に体得しているのではないだろうか、と著者はいう。社会的評論(識者・評論家などといわる人々だけでなく、一般の人々の社会現象への対応をふくめて)というものが、あまりにも観念的で、現実の上をうわすべりしており、むしろそうしたあり方を当然のことのように受けとめているからだという。
 さきにあげた社会評論家たちの反応のように、日本における社会評論というものは、主観的で独りよがりになりやすく、問題を対岸の火事のように扱い、説得力もなく、問題の解決に役立たないものが多い。たとえば、世の関心を集めたなげかわしい社会現象に対して、道徳的批判を熱心にして、その後で「要するに教育(制度)が悪い。これをなおすべきだ」ということがよくきかれる。この種の意見は、もちろん、教育関係者以外から出されるのが常で、文部省がけしからん、とか、学校教育の内容が悪いことを指摘する。
 もちろん、こうした指摘は十分意味あるものと思われるが、それでは、実際に、どうしたら教育をその方向に改革することができるか、従来の教育体制・内容を変えるためには、どれほどの関係者のエネルギーと時間がかかるか、あるいは、それでもできるのかどうか、という問題となると、ほとんど戦略をもちあわせていない。
 さらに、たとえ、教育制度や内容を変えることができたとしても、それが実際にどのくらい効果をもつものであるか、といった予測においては、まったく希望的観測の域を出ない。日本人の教育に対する期待は、並はずれて大きいような気がする。これは前述した社会認識のあり方と、密接に関係しているように思われる。
 とにかく、実情にメスを入れて方法を論ずるのではなく、「こうあるべきだ」という謳い文句や、「こうすべきだ」という主張の吐露に力点がおかれるのが、日本における社会評論の特色である。実態をどのようにしたら、どこまで改善できるか、またできないか、という実態の把握をもとにした具体的方策に関する問題は、彼らの関心の枠外におかれているようにみえる。(pp.141-1421)
まあ、一国の首相がこれに近いのだから下々の者にはもっとこの傾向が強いのではないかと思う。我が家の大蔵大臣も3.11震災直後から「原発反対」を声高に叫び始めた。「だから原発は反対だったのよ」と言うが、じゃあ原発を全部止めて日常生活どうするのよというところに話が至ると途端に迫力が失せる。今、「脱原発」に反旗を翻すのは誰がどう見たって不可能なことだが、本当に原発なしで今の生活水準を維持できることを科学的に実証してくれている人は、単に僕が不勉強だからなのかもしれないが、あまり見たことがない。

この記事を書いているのが7月31日(日)なのであえて言うが、TBSテレビの『関口宏のサンデー・モーニング』は張本の「喝!/アッパレ!」ではなくメガネ姿の唐橋ユミさん目当てでスポーツのところだけは見ているが、時事問題についてレギュラー解説者があーでもないこーでもないと評論しているところはちゃんと見ないようにしている。関口宏が単に「〇〇さんはどう思われますか?」という質問の振り方をしているだけで、司会者としてのレベルの低さに大きな問題があると思うが、「私専門外ですから…」と断りもせず、いかにも専門家然として評論を繰り返し、そして主語を曖昧にして(或いは自分ではない他者、特に政府を暗黙の主語にして、「~すべきだ」と述べる評論家の人々には飽きてしまった。他の番組でも、タレントが評論家面していろいろ喋っている番組はあまり見る気がない。まさに観念論と希望的観測のオンパレードだ。

さらに著者は、こうした一連の観念論の横行は、日本社会を装う一種の衣裳であるとも述べている。力学的規制と動きというものはちょうどヌードのようなもので、それに着せる衣装が道徳的観念論である。衣裳は人体をひきしめ、保護するとともに、その欠陥を補ったり、“馬子にも衣裳”でよい衣裳は実体をひきたてもする。しかし、衣裳は実体にそって動きはするものの、実態とはまったく別のものである。同様に、観念的な議論や意見の表明は、現実にそってはいるが、両者は一体でもないし、交わってもいないと著者は言う。
衣裳というものが、その時代の流行を常に反映するように、社会評論にはときの流行がよく出ている。大勢の人々が同じようなことをいって、1つの見方が支配的に出てくるのは、そのときの流行に当たる。論理的な可否よりも、論者の姿勢が問われるのはそのためである。
 国際会議の場で、「日本代表の演説は内容がなく、観念的で我々の期待に反したものであった」などということをよくきくのは、実体よりも衣裳に力点があり、行動計画よりも姿勢を示すということに関心があり、また、それが文化的なスタイルとなっているためでもあろう。少なくとも、国内的には、このような観念的提示で事がすむ、あるいはそれが意味をもつということは、日本社会がその構造設計において、すぐれた性能をもっているからである。
「全力をあげて取り組む」、「~に万全を期す」といった言葉が耳触りになってきたのは民主党政権になってからで、政権中枢の人々の言葉の軽さにしらけモードに入っているところだが、1978年発刊された本書でこのような点が指摘されているということは驚きでもあった。確かに、対処方針と称して衣裳をどうするか、衣裳をどう見せるかという議論が準備段階では延々行なわれるのは日本の組織文化の特徴で、実体をどうするのかについての議論はあまりされているとも思えない。

どうしたら日本人は変われるのだろうか。悩みは深まった。
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