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戦前の日印綿花貿易 [シルク・コットン]

3年間のインド駐在員生活の中で、なぜそれがそこでそのような形で存在しているのかにわかに理解できないという事物をたまに経験した。あれが何だったのかというのを後から調べてみるような実践をそれほどしていたわけではないのだが、中には喉にささった魚の骨のようにずっと心に引っかかっていて、たまたまきっかけがあって日本に帰って来てから調べてみたりしたこともないとはいえない。

NichimenMumbai.jpg

上の写真はムンバイの綿花取引所の構内に遺っていた「Japan Cotton Trading Co. Ltd.」――旧ニチメンのビルである。構内を案内して下さったインド人綿花商の方によると、もう100年もの歴史がある建物だという。なんでそんなビルが建っていたのか、そしてなぜ廃れてしまったのか、その時はまったく理解できなかった。ニチメンはその後日商岩井と合併して今は「双日」という総合商社として存続している。双日はインドにもオフィスを構えていて、綿の調達は今でも行なわれている。マディアプラデシュ州インドール郊外のオーガニックコットン栽培地域を訪問した時も、「少し前に日本人が来ていた」と言われたので、よくよく聞いていくと双日の方だったというのがわかった。元々綿花生産の盛んな地域だが、インドールに入っていくなら船積港はムンバイだろうから、ムンバイに拠点がある筈で、それがなんで綿花取引所の構内の建物が廃墟となっているのか、どうしても理解できなかった。

それが、蚕糸業での日本とインドの交流の歴史を遡っていく作業がきっかけとなって、綿花貿易の歴史についても偶然知る経験を最近した。ここ数カ月の中では最高の「アハ体験」だった。

黄 孝春
「戦前期日本における綿花輸入機構の変容とその論理」
『人文社会論叢:社会科学篇 1』 , 45-59, 1999年、弘前大学

URL: http://ci.nii.ac.jp/naid/110000084356

本日ご紹介する論文は、インド綿花の輸入の歴史を解説したものだ。日本の綿花の輸入先というと、今は米国の29.4%を筆頭に、ブラジル(24.1%)、オーストラリア(17.2%)、シリア(6.4%)に続き、インドのシェアは5.7%しかない(2009年)。生産高では中国、米国に続く3位であるから、日本にとってのインドの重要性は相対的には低下しているが、1915年のインドのシェアは7割近く、日本の重要な貿易パートナーだった。この論文には輸入綿花の国別構成の推移が示されているが、19世紀末までは中国が6割近くを占めていたのが、インドが徐々にシェアを伸ばして1920年代には5割以上を占めるに至り、第2次世界大戦前の1930年代には米国が6割近くを占めるようになった。この仕入先の構成推移は非常に劇的だ。

もう1つの特徴は、1890年代末までは外国商社を通じた輸入が多かったが、以後日本の商社による直輸入が増えた。1905年頃までは三井物産、日本綿花(ニチメン)、内外綿の3社で3割を占め、1910年頃からは三井、日本綿花、江商(現在の兼松)の上位3社で50~60%、1925年にはピークの70%に達した。これも1939年には40%弱にまで低下している。

すなわち、1890年代末から1930年代に至るまでの日本の綿花輸入は、日本の商社によるインド綿の直接輸入が中心だったということになる。

生糸の場合もそうだったが、綿糸の場合も、製造コストの7、8割を原綿価格が占めており、原綿をいかに安い価格で安定的に確保できるかどうかが紡績企業の死活問題だった。19世紀後半に輸入の中心となった中国綿は、中国系の商人に牛耳られており、日本の商社がなかなか参入できない状況だったようである。日本の紡績企業は、「紡績製造と綿花輸入の兼営方針をとらず、兼営のリスクを避けるかわりに、綿花商社の設立に積極的に関与し、人的、資本的つながりを持つ一種の系列関係を維持することによって綿花の購入条件を有利にしようという戦略を選んだ」(p.48)と考えられる。また、日本の紡績企業は、「すでに外国綿花の輸入体制を整えつつあった外国商社を積極的に利用せず、自国商社主義の原則を貫いた」(同)。最初は中国綿の直輸入を試みたがうまくいかず、そこでインド綿の直輸入に方針を切り替えたのだという。しかし、インド綿の輸入ではボンベイ(ムンバイ)の有力な綿花商(欧州系が多かったらしい)を代理店として選定し、その力を利用せざるを得なかった。三井物産と日本綿花は欧州系商社と取引し、紡績企業数社の出資で形成された内外綿は、タタ商会と特約を結んだ。1891年のことである。

原綿の輸入価格には、原綿自体の仕入価格に加え、日本までの輸送コストも反映されている。当初インド綿の輸送は、ボンベイ-日本間に定期航路を持つピーオーなど外国海運3社によって独占されていたため、日本の紡績企業は高い運賃に苦しめられていた。そこである人物が登場するのである。ジャムシェトジー・タタ―――タタ商会の会長で現在のタタ財閥の創始者である。

以前もご紹介したが、ジャムシェトジーは1893年に来日しているが、その目的は、日印独自の定期航路を開設して外国海運会社による寡占体制を打破することだった。ジャムシェトジーは東京で渋沢栄一とも面談し、定期航路開設を力説し、自分も船舶を提供する用意があるとの提案を行なっている。そして、同年10月には、日本紡績連合会加盟の紡績企業および綿花商社と、日本郵船との間にインド綿積取契約が締結され、ボンベイ-日本の定期航路が開設されることになった。

ここまでわかったことで、本論文を読んだ僕の目的は達成されたわけだが、ここまで読んでくると1つだけ疑問が残っている。それは、当初ボンベイの欧州系商社と組み、その対日売込みを受けてインド綿輸入を増加させてきた日本の商社は、日印定期航路の開設によってどう対応したのかということである。

結論からいうと、増加しつつある紡績企業の綿花需要に対応するためには、こうした「対日売込商への依存から脱却し、現地市場での直接買い付け」(p.51)が不可欠となったのである。三井物産は1897年にボンベイ支店を開設し、1904年から産地直買を開始しているし、日本綿花も、1897年ボンベイ出張所、1907年ボンベイ支店を開設している。つまり、冒頭写真でご紹介したニチメンのビルは、本当に今から100年ほど前に建てられたものだったということなのである。今や廃墟と化しているビルも、そうした歴史があったのですね。

本当に勉強になる論文でありました。
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匿名希望

突然、何年も前の記事にメッセージをしてすみません。
今週末にムンバイを訪れるので、ぜひこの跡地をみたいのですが、
ムンバイのどこで、、写真の風景はみられるのでしょうか。
よろしければ浄書を教えてください。尋ねてみようと思います。
by 匿名希望 (2014-03-12 02:35) 

Sanchai

ムンバイの綿花取引所(Cotton Exchange)の敷地内にあります。グーグルマップで、Cotton Exchangeで検索すると場所がわかります。私は取引所で働いている知人に連れて行ってもらいましたが、自由に出はいりできるかどうかは当時の記憶があやふやで、ちょっと自信がありません。(多分できると思います。)
by Sanchai (2014-03-12 05:17) 

匿名希望

早速のお返事、どうもありがとうございます。
今、ムンバイに着いて、PCを開いて、返事がきていて、感動しました。
場所はわかったので、トライしてみたいと思います。
ムンバイの空港がリニューアルオープンしてました。
新すぎて、中身がついていけず、すごくがらんとしています。
店が何も入ってないです。
by 匿名希望 (2014-03-13 03:04) 

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