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『タタ財閥』 [シルク・コットン]

タタ財閥―躍進インドを牽引する巨大企業グループ

タタ財閥―躍進インドを牽引する巨大企業グループ

  • 作者: 小島 眞
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2008/02
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
海外企業買収を本格化させるなど、グローバル企業として急速な成長を続ける一方で、古き伝統の価値観を失うことなく従業員の福利厚生や企業の社会的責任を重視するタタの次なる挑戦はどこまで可能なのか。株式時価総額800億ドル老舗財閥の実像に迫る。
先週、ひょんなことからタタ財閥の創始者のジャムシェトジー・タタが南インドに持ち込んだ日本式の蚕糸業の話を知り、少しばかり調べてみた。なんでもジャムシェトジーが日本を訪れたのは1893年(明治26年)のことで、その後バンガロール郊外で「タタ・シルク農場」なる農園を開き、日本人の専門家を招聘したのだという。招聘したのは1903年頃らしく、今のところ確認できている日印の蚕糸業分野での人的交流としてはこの史実が最も古い。ちょっとロマンをそそられるお話だ。(それ以前に日本の蚕種を導入したケースはあったらしいけれど。)

そんなわけで、ジャムシェトジー・タタが日本に来た際に見た日本式蚕糸業とはどこのことなのか、招聘された日本人専門家が誰で、どのような経緯で選ばれたのかといったことを知りたいと思って、取りあえず日本語でも読める本を市立図書館で借りてくることにした。
 ジャムシェトジー・タタは、1824年創立のインド最初のイングリッシュ・スクールであるエルフィンストン・カレッジ(ボンベイ大学の前身)を卒業後、父親の経営する販売会社で働いた。その間、英国に4年間滞在し、当代第一級の思想家や政治家と交流する機会などを得て、自由主義思想や正義を尊重する考え方に共鳴し、彼の人格形成に深い影響を与えることになった。
 29歳になった年に独立し、1868年に販売会社を創立した。その後、紡績事業で財を成し、今日のタタの礎を築いていくのである。当時は英国の植民地支配下で制約が多く、インド人にとっては厳しいビジネス環境であったが、彼は多くの困難を乗り越えてホテル事業にも参入し、インド人による初めてのホテル(タージ・マハル・ホテル)を1903年に設立した。
 ジャムシェトジーは、1885年の第1回会議以来の国民会議派のメンバーでもあり、反植民地運動に身を投じていた活動家たちとも親交があった。彼は産業発展こそ経済的自立、さらには貧困克服にとって最も有力な道であるという強い信念を持ち続け、自らのビジネスの目的をインドの国民経済形成に貢献するためのものと考えていた。
 ジャムシェトジーは、製鉄所、水力発電所の設立、さらには理工系高等教育機関の創設に着手するが、いずれも道半ばで実現を果たせず、後継者となる長男のドラーブジーが父の遺志を実現することとなった。1907年にはサークチー(現ジャムシェドプール)にインド初の製鉄所であるTISCO(現タタ・スチール)が設立され、1912年に操業が開始された。また水力発電所に関しても、タタ水力発電供給会社が設立され1915年から稼働の運びとなり、ムンバイに電力が供給されるようになった。
 ジャムシェトジーは、国づくりは「人づくり」と考え、世界レベルの科学技術の高等教育機関の創設を願っていたが、彼の遺志は様々な人々の協力によって1909年に実現する。今日の科学大学院大学(IISc)である。インドの将来を見据えた国づくり、人づくりの礎を築くことが創業者であるジャムシェトジーの目標であり、企業が果たすべき社会的責任であった。
 ジャムシェトジーの考え方は、創業140年近い今日のタタにおいても、「タタの価値観」(タタ・バリュー)として脈々と受け継がれている。(pp.48-50)
ジャムシェトジーについて詳述されている箇所は本書ではあまり多くない。本書は元々今のタタ財閥の姿を描こうという意図から書かれたもので、TCSやタタ・スチール、「ナノ」で有名なタタ・モーターズ、タタ・パワーといったグループの中核企業の紹介を中心に、インドの製造業やインフラ事情を概観できる読み物となっている。2008年発刊でさほど古い本ではないが、何しろ動きの激しい企業グループの今を扱っている本だけに、それから3年近くも経過してしまうといささか古さも感じてしまう。簡易浄水器「スワチ」や通信部門でのNTTドコモとの提携等については当然触れていない。もう少し歴史的変遷にフォーカスしていればもう少し日持ちしただろうが、そうするにはもう少ししっかりしたリサーチが必要になったことだろう。

だから、ジャムシェトジーのことを知りたければ本書だけでは不十分である。そもそもタタ・グループの歴史にはあまり注目してないので、あまり詳細な情報を期待するのはないものねだりだろう。だから、本書の参考文献リストにも掲載されていない別の文献にも言及しておく。内容は読んでいないが、発刊直前にこの本を紹介した新聞記事があったので、その記事を紹介する。


For the Love of India: The Life and Times of Jamsetji Tata

For the Love of India: The Life and Times of Jamsetji Tata

  • 作者: R.M. Lala
  • 出版社/メーカー: Viking
  • 発売日: 2004/05/30
  • メディア: ペーパーバック
シルクを作った鉄鋼業界の男
The steelman who made silk
FortheLoveofIndia.jpg2004年5月19日(水)、The Hindu Business Line
今日、私達はジャムシェトジー・タタ没後100年を迎える。ジャムシェトジーは、鉄鋼業や水力発電だけではなく、インド科学技術大学院(IISc)もインドにもたらした。しかし、彼が自身の個人ファンドによってマイソールのシルク産業を再興したことについては殆ど知られていない。R.M.ララは、近日発売されるJ.N.タタの伝記『インドへの愛のために(For the Love of India)』(右写真)において、マイソール州立公文書館の資料をもとに、この無私の著名な貢献の詳細について明らかにしている。
 ジャムシェトジーはシルク産業を育成するという試みを真剣に捉えていた。フランスで彼はシルク産業について学び、特に家内工業ともいえる蚕の飼育について学んだ。1893年に日本を訪問した際、彼は日本人が養蚕業に秀でていることを知った。彼は2人の日本人専門家夫妻をインドに招聘する。 いとこのR.D.タタの日本人使用人が英語を習得しており、彼が通訳を務めた。ジャムシェトジーはシルク産業振興の適地を探した。気候がかなり温暖であることが必要であり、そこで桑の木が多く生育していたバンガロールを農場として選定した。
 マイソール州政府との調整を通じ、土地を取得したジャムシェトジーは、マイソールにもティップ・スルタン王朝の時代にシルク産業があったことを知る。しかしこの産業は既に衰退し、幾つかの村で細々と行われていた蚕糸業は原始的な形態に過ぎなかった。このため、彼は日本人専門家をバンガロール農場常駐とした。  ジャムシェトジーはシルクビジネスに参入することについては殆ど興味を持っていなかったようである。彼は蚕糸業に適したサイトを取得し、そこで小規模な農園を開業したが、それはインド人が桑栽培法や蚕飼育法、蚕病、糸繭管理法、繰糸法、市場への出荷の進め方等について学ぶ場と位置付けた。農場は日本式の生産方法に基づいて運営された。インド人の子供達が先祖の興した古い産業を蘇生させるための訓練をそこで受けた。こうした徒弟は最低3ヵ月間ここで訓練を受け、シルク産業に係る全ての側面について無償で指導を受けた。ジャムシェトジーのシルク農場での実験は開始から成功であることを証明するものだった。
 1980年代のバンガロールで、著者は文化研究所(Institute of Culture)近くにあった「タタ・シルク農場交差点(Tata Silk Farm Crossroads)」という看板に興味を持ち、その背景を調べてみることにした。そして、マイソール州立公文書館において、この農場の詳細とそこで何が起ったのかについて明らかにする文書を発見した。
 ジャムシェトジーは救世軍の支援を受ける。F.ブース・タッカー著『1910-11年インド、セイロンにおいてフランス、イタリアとともに救世軍が行なったマイソール及びエリ蚕の実験』(1912年)の中に、次の引用がある。
 蚕糸業における我々インド人の実験の幾つかに関する詳細はおそらく実用面から興味深いものであるかもしれない。バンガロールのタタ・シルク農場は、約8年前(1902-03年頃)に、故ジャムシェトジー・N・タタによって創設された。彼は、インドのシルク産業に必要とされるのは、日本における同様の取組みで追求されていたビジネス原則と同じものであると考え、1人の日本人専門家とそのアシスタントを招聘した。マイソール州政府はこの農場のために賃料免除の土地使用権と年3000ルピーの事業助成金を供与した。10釜の小型繰糸機が設置され、庭には様々な品種の桑が植えられた。
  タタ氏やトーマス・ワードル卿のような有能なビジネスマンが、インドのためのビジネスモデルを探し、片や日本、片やフランスに目を向けることは、おそらく当時は少し珍しいことだっただろう。タタ氏は日仏両国に精通していたが、その上で日本を優先している。
 自分が考えるインド蚕糸学校構想の中心地としてマイソールを選定する際、彼はこの地の気候条件が養蚕に向いていることや質の高いシルクを生産できる現地産の蚕が品種が存在していたことなどが決め手となった。彼は日本やフランス産の品種に比べて多化性マイソール種を選好したが、いずれは両者の交配によって、それぞれの優れた特徴が組み合わされていくことを期待していた。1910年1月、我々救世軍は、ジャムシェトジー氏の子息であるサー・ドラブジー・タタの要請を受けてバンガロール・シルク農場を継承した。マイソール政府もこの取極めを支持し、以後3年間にわたり事業助成を継続することに同意してくれた。 エンサイン・グラハム夫妻が農場責任者として配置され、精力的な運営を行なった。欧州人オフィサーのうち7人が既に訓練を受け、さらにマイソールやトラヴァンコール、マドラス、ボンベイ等から集まってきたインド人学生や農夫も訓練を受けた。蚕種や桑苗はマイソールだけではなく英連邦直轄地域やパンジャブ、バローダ、グワリオール等に配布された。農民や学生は日本式の製糸技術の研修も受けた。
 家内工業的使用を目指して安価で使いやすい繰糸機が製造された。桑園面積は大幅に増加し、建物が何棟か増築され、繰糸機の釜の数は倍増した。インド各地から農場を訪れた訪問者は、その後も様々な指導助言を求めて農場関係者との連絡交流を続けた。
 タタ・シルク農場は、救世軍の支援の下、セイロンと英連邦直轄地域、及びパンジャブに同様な性格を持つ研修所を生み出した。こうして、「タタ・シルク農場は汎インド主義的性格を持つべき」とする創設者の理想と目的は既に達せられた。この数カ月の間も、バンガロール・シルク農場は蚕の卵から絹織物に至るまでの全工程を説明した展示によって、バンガロールで金賞、マドラスで銀賞を受賞するといった実績もあげている。
 織物職人の指導による織物教室が農場に新たに加わろうとしてい。未だ始まったばかりであるが、大きな将来性を秘めていると期待されている。

 ジャムシェトジーはテキスタイル部門への繋ぎのビジネスについてはあまり興味を持っていなかった。彼は貧しい人々に生計向上手段を与え、インドに国造りのための産業を与えたいと願っていたのである。
 救世軍が初めてインドにやってきた時、タタ氏は彼らのよき友人だった。救世軍は節制を強調し、こうした運動をジャムシェトジーは好んだ。
 ブルジョルジー・パドシャーに宛てた1912年11月1日付の書簡の中で、救世軍のブース・タッカーは次のように述べている。「インドのシルク産業に与えられた勢いは決して過大評価できるものではない。政府はシルク産業振興努力をかつて諦めていたが、今では事業遂行を奨励している。桑の植樹を奨励する政府令も発出されたところである。蚕飼育に関する説明が描かれた公報やパンフレットが作成され、展示会のような形での公開展示が行なわれるようになってきている。(中略)遠くない将来、インドのシルクは、日本や中国、フランス、イタリアといった国々でシルクが意味するのと同じ意味を持つようになるだろう。そして、この試みを始めた人物は、その先見性と尽力から恩恵を受けた多くの人々によって忘れがたき存在として語り継がれるだろう。」
 インドでは今日、南インドのシルク産業が鉄鋼業や水力発電をインドで興したのと同じ人物によって復興されたことについて殆ど知られていない。
*記事全文(英語)は下記URLからダウンロード可能です。
 http://www.thehindubusinessline.in/2004/05/19/stories/2004051900551000.htm

実は、日本語のサイトでグーグル検索をかけると、ジャムシェトジー・タタが1893年に訪日したのは、冒頭引用にあった綿紡績業との関係であることがわかった。訪日の際、ジャムシェトジーは渋沢栄一と面談している。渋沢は埼玉県深谷出身で、実家は養蚕業を営んでいた。ジャムシェトジーと渋沢の出会いについて言及しているウェブサイトによると、ジャムシェトジーはインド産綿花の日本への輸出促進とそのための日印定期航路の開設を働き掛けるために来日したらしい。また、『タタ財閥』を読んでいると、タタ・グループと日本郵船(三菱グループ)との関係が100年以上前に遡ることができるとの記述があるが(p.158)、そもそもの日本郵船の設立も、この日本発の遠洋航路の開設も、ジャムシェトジーの訪日がきっかけとなっている。

【参考にしたウェブページ】
http://mphot.exblog.jp/5817396/
http://okuyama08.blog120.fc2.com/blog-entry-3.html
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3940/1/kana-14-33-0004.pdf

それにしても、今まで僕の頭の中ではインドのコットンとシルクが完全に分かれて整理されていたのだが、ジャムシェトジー・タタというタタ・グループの初代総帥について知る中で、初めてこの2つの繋がりを見出すことができたのは大きな収穫だったと思う。本書だけでは情報不十分だったけれども、それを補うべく自分で調べたことが新たな展開を生み出しそうな気配で、ちょっとした嬉しさは感じているところである。
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小宮由次

ブログ管理者様

貴ブログ2004/5/19 「シルクを作った鉄鋼業界の男」で紹介されているタタ財閥のジャムシェトジー・タタの写真を使わせていただきたくお願いします。
使用目的:大正・昭和初期に神戸に栄えた商社「鈴木商店」について研究しています。鈴木商店と縁の深いタタ財閥の項に上記写真を使いたいと希望するものです。

小宮由次(こみや よしつぐ)
東京都世田谷区玉川1-15-2-1205
ykomiya@r02.itscom.net
by 小宮由次 (2012-11-03 17:25) 

Sanchai

これは本の表紙なんです。
by Sanchai (2012-11-03 17:41) 

小宮由次

ブログ管理者(Sanchai)様

この本の装幀の写真を使わせていただくこと可能でしょうか?


小宮由次
by 小宮由次 (2012-11-03 20:13) 

Sanchai

入手した本の表紙をスキャナで取り込んだものなので、使っていただいてもよろしいかと思います。
by Sanchai (2012-11-03 21:35) 

小宮由次

ブログ管理者(Sanchai)様

有難うございます。

小宮由次
by 小宮由次 (2012-11-04 16:46) 

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