SSブログ

『非才!』 [読書日記]

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学

  • 作者: マシュー サイド
  • 出版社/メーカー: 柏書房
  • 発売日: 2010/05
  • メディア: 単行本
僕のブログを読者登録していただいているうしこさんのブログで紹介されていた本で、以前僕が続けざまにケニアの長距離ランナーに関する書籍の紹介をやっていた頃に、うしこさんが下さったコメントの中でも言及されていた。面白そうだったので図書館で借りて読んでみることにした。

300頁を超える大書だが、書かれていることは意外と単純明快で、「この世には遺伝的に決まる「才能」なんてものはない、すべては努力(と運)だ」(p.324、訳者解説)というものだ。本書では度々「10000時間」という言葉が出てくるが、要は何事でも10000時間も打ち込めばその道の専門家になれるというもので、そうした継続的な努力の中で形成されていくパターン認識で、難しい技術も楽々できるようになっているのだという。著者は五輪の英国代表にも選ばれた優れた卓球選手であるが、卓球選手として優秀だから反射神経も天才的なのかというので試しにテニスのミヒャエル・シュティヒ選手とテニスの試合をした。結果は、シュティヒのサーブに著者は全く反応できなかったという。要は卓球とテニスではパターン認識が異なるために、卓球の練習で鍛え上げた動体視力や反射神経は、テニスには適用できないのだそうだ。

「10000時間」というのは、実は初めて耳にするものではない。数学者・藤原正彦氏のお母さんが幼い正彦氏に言って聞かせていたのが確か先の言葉である。要はスポーツだけではなく、勉強についても芸術についても一緒ということなのである。我が家の愚息たちには、これを信じて勉強も音楽もスポーツもちゃんと取り組んで欲しいものだが、そう言って聞かせるだけでは子供達も聴く耳持たないかもしれないので、オヤジとしてはちゃんとやって証明してみせることも必要だ。(ブログを舞台にして10000時間も「作文」の練習をやってれば、僕も達筆になれるということなのかどうかはわからないが、10000時間も「翻訳」の練習をすれば、僕もいっぱしの翻訳家にはなれると信じたいものだ。)

僕はその番組を見なかったのだが、最近、あるテレビ番組で、中日ドラゴンズ・落合監督がノムさんと対談し、ドラゴンズの春季キャンプの練習が長くて厳しいと指摘したノムさんに対して、落合監督は、最近の若い選手が練習しなくなったのはノムさんが「データ野球」を提唱して選手に考えて野球しろと言ったからだと反論したのだそうだ。頭の中で考えているだけではダメで、ちゃんと練習してパターン認識を体に覚えさせなければいけないというのが落合監督の考えなのだろう。

ところで、本書の著者は、こうした努力だけではなく、訓練を積ませるには必ず目的を認識させろ、目的性訓練をつつましい形ででも導入することで、無数の人々の眠れる可能性を目覚めさせることができるということを述べている(p.124)。にもかかわらず、世の中には「傑出性才能説」が相変わらずはびこり、成功が結局は練習より才能によるものだと信じる人が多く、個人や親が手間ひまかけて向上しようとする動機を奪ってしまっていると嘆いている。

僕はこの主張はある程度までは支持する。ブログでは度々紹介しているが、僕は高校卒業時にいったん剣道を辞めている。その後2000年に米国駐在生活が始まったのをきっかけに再開するのであるが、以後仕事が忙しくて中断したブランクはあっても、意外と続いている。それはなぜかといえば、いい先生に出会えたからだと思う。高校時代と比べれば明らかに僕は上手くなったと思う。目的が割とはっきりしたので稽古をどう積めばいいのか自分で考えて反映させられるようになった。まあそれでもうまくいく時もあればいかない時もあるが。

また余談になってしまうが、昨日発売された隔週刊誌『Number』の最新号に落合監督の記事が出ていた。それを読むと、落合監督は、単に選手に厳しい練習を課してパターン認識の強化を図っているだけではなく、選手に考えさせもしていて、練習の目的というのを選手にちゃんと認識させようと努めていることがわかる。道理でドラゴンズは強いわけだと思う。

ただ、反論したいところもある。僕も以前は月間200kmを走り込んでいた市民ランナーだったが、走り込んでタイムが縮んだかというと、とてもサブスリー(3時間切り)まではいかなかった。10000時間も走っていないというのはその通りだが、仮に走り込んだからといってサブスリーにまで行けたかどうかはわからない。そこまで辿り着く前に故障して走れなくなる可能性だってあるのだし。著者だって認めているが、対戦する相手だって練習を積んできているわけで、タイムのような客観的な指標で測れるものはともかく、勝負に勝った負けたはその時の駆け引きやレース展開のあやだったりする。

結局のところ、答えはその間にあるとしか言いようがない。言いようがないのだが、残された時間がゆうに10000時間を超える我が愚息たちには、勉強は当然のこととして、①長男には僕が到達できなかったサブスリーに行って欲しいし、②長女にはここまでやってきたピアノを続けて欲しいし、③次男には剣道で僕も行けなかったレベルにまで技を磨いて欲しいとやっぱり期待したい。単なる親バカである。

それと、ケニアの長距離ランナーがなぜ強いのかについても、本書は遺伝説を明確に否定しているので嬉しい。ナンディ地方の町エルドレッド周辺出身のカレンジン人が多いというのを、その地域には先駆者が開いたマラソン・キャンプが多く、練習機会が集積しているからだという説は説得的だと思う。同じような環境にあるエチオピアのある地方からゲブレセラシエのようなランナーを輩出しているのも同様な理由らしい。また、そうはいってもケニアの他の地域からもランナーを輩出しているのも、ケニアの国自体がそういう練習環境が提供できるようになってきているからだとも考えられる。

ただですね、この著者、ナンディ地方のカレンジンが「10000時間」の練習を積めている理由として、小さい頃から10~20kmを走って学校に通っていたからだなどと述べているのには笑ってしまった。はっきり言って、それは偏見です。昔はそうだったかもしれないが、今はスクールバスもあるだろうし、学校がもっと僻地に新設されていることだってあるだろう。むしろ、練習機会が集積する地域であって常に刺激を受けられることの方が大きいのではないだろうか。

最近、ケニアだけじゃなくてエチオピアのマラソンランナーも成績が良い。東京マラソンの結果もそういう傾向を反映しているような気がする。でも、実業団の選手を抑えて公務員ランナーの川内選手が日本人最高位でサブテン(2時間10分切り)を実現したりすると、練習量よりも質かなという気もしてしまった。
nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0