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『日本の養蚕村』 [シルク・コットン]

日本の養蚕村―その推移と現状

日本の養蚕村―その推移と現状

  • 作者: 大迫 輝通
  • 出版社/メーカー: 古今書院
  • 発売日: 1994/05
  • メディア: 単行本
内容(「MARC」データベースより)
「日本の製糸都市-都市再生の地理学的研究」の姉妹編。本書では、養蚕村について、それぞれの斯業の推移の態様について、また養蚕衰微の結果、各村の作業構造はどのように変化し、その再生はどのように行われているか分析する。
この年末年始に岐阜の実家に帰省した際、僕の小学校低学年の頃まで自宅の土間では蚕が飼育されていたという自分の記憶は正しいのかどうか、父に尋ねてみた。残念ながら父の記憶も曖昧だった。父によると、多分、僕らの小学校のカリキュラムで蚕の成長を見るというのがあって自宅で単発的に飼ったことがあるのだろうということだった。他方で、昔、うちの田んぼに向かう途中の曲がりくねった道の途中に桑の木が植わっていたというのは父も覚えていた。農業構造改善事業が僕の故郷でも実施され、農地の整備が行なわれた際に、こうした桑の木は伐採されてしまった。それ以降、小学校の教育の一環で蚕を各戸で飼育するような実習は難しくなったに違いない。

一方、明らかに昔は養蚕をやっていたことを示す証拠も見つかった。父は近隣の農家3戸と一緒に農機具を共同購入し、田んぼに近い場所に建てた倉庫で共同管理をしているが、この年末その倉庫を訪ねて行って、そこに保管されている昔の農機具を調べてみたところ、繭を運ぶためのかごや、繭から糸を取るための糸繰り車が見つかった。我が実家の農具ではないかもしれないが、少なくとも我が故郷の村では昔は養蚕をやっていたことが確認できた。

日本の蚕糸業は、大正後期から昭和初期のころが最盛期だったと言われている。本書は、当時の代表的な養蚕村として41の町村を取り上げ、その後の推移をまとめたものである。



昭和初期、当時の日本の一般的な農村では、米作と養蚕の、「コメと繭」あるいは「穀桑式」といわれる農業形態が取られていた。本書で取り上げられた41の養蚕村は、その中でも特に養蚕一辺倒に近いかたちで経営が行なわれていた。やがて昭和恐慌や太平洋戦争を経て、これらの町村の産業や村落の構造は大きく変容していった。

養蚕一辺倒の町村の変容の方向には2つの流れがある。1つは、果樹園芸や畜産など、新しい商業的農業への鮮やかな転換であり、もう1つは、養蚕もしくは桑に代わるめぼしい作物を見出すことができず、農業は精彩を欠き、それに伴って農家では農業離れと兼業化が進展し、農業は自給的傾向を強めていくというものである。いずれの方向に向かったかは、それぞれの養蚕村の置かれている諸条件、特に耕地の状況、都市との距離と位置関係などによるところが大きいと本書は指摘する。

第1のグループ、すなわち養蚕一辺倒から果樹または野菜一辺倒に切り替わった町村グループでは、水田率は比較的低く、畑または樹園地への依存度が高いという特徴がある。

第2のグループ、すなわち農業離れと兼業化進展の町村グループでは、耕地の壊廃が耕地縮小に繋がり、1戸当たり経営規模の縮小も進んでいる。これらの町村は、都市部、また近郊町村が多いが、水田率が高い、畑及び樹園地作物で特に抜きん出た作物がない、兼業農家率が高い、特に第二種兼業農家率が高い、などの特徴が見られる。

もう1つの視点は、「都市化と過疎化」である。本書で取り上げられた41の養蚕村のうち、7割近くが現在都市部にあるか、それに隣接している。これらの町村では、直接的な都市化が進展し、耕地の壊廃が進んでいる。また、都市から離れて位置する町村でも、道路新設などによる壊廃が進んでいる。兼業化の進展も、都市の産業に従事する者が多い。逆に、都市への人口流出、過疎化現象も養蚕村では進んでいる。

以上、本書の終章(pp.191-194)に基づき紹介した。

本書を読んでみようと思った理由は、南インドで盛んに行なわれている養蚕が、衰退するとしたらどういう状況になったらそうなるのかを考えてみたかったからである。カルナタカ州のバンガロールやマイソール周辺がインド最大の養蚕地帯で、養蚕のための桑畑の面積も相当なものがあるらしいが、大都市周辺なら都市化の波が押し寄せて来そうだと容易に想像できる。一方で、人口は多そうなので「過疎化」云々の話はまだまだ先のことだろう。

水田率ではないが、灌漑可能な農地かどうかという基準で見ていくと、本書の著者は1980年代に南インドで農村調査を行ない、その結果を論文にまとめているものがある。それによると、マイソール県の桑園は殆どが無灌漑の天水桑園で、その他の地域では灌漑桑園が大部分を占めているとのことである。そして、乾燥農法中心のマイソール県では、なけなしの灌漑水は他の水をやらないと育たない作物に利用され、養蚕は低い地位に転化しつつあると指摘している。逆に、マンディアやコラール県などの州南東部の灌漑普及県では農家は養蚕に積極的だという。

結論としては、マイソール県での桑園面積の減少は、都市化に伴う宅地や工業用地への転化と都市を市場とする近郊農業に適した作物(果樹や野菜)への転化の両面から早期に進み、その他の地域でも、今は未だ養蚕には農家は積極的だが、バンガロールの市場の拡大に伴い、同じような近郊農業へのシフトが起こるとしたら灌漑可能な農地が多いだけにマイソール周辺と比べてもはるかに急速だということができそうだ。

ただ、園芸作物に転換するにしても、大都市から離れた遠隔農村でどこまで園芸がペイするのかは未知数ではある。この地域に養蚕が普及した最大の理由は、繭が軽くて運搬が楽だったこと、繭市場ではその場で現金買取りが行なわれること、それゆえに自分で繭市場まで遠路はるばる繭を運搬し、中間マージンゼロで現金収入を得られることなどがあったからだと言われている。従って、人件費が安いうちは、養蚕業継続にはそれなりのメリットもある。
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冬嫌い

実は私の田舎は三重県の伊賀地方なんですが、小学校低学年の頃(今から40年近く前)学校への通学路の途中で桑の木があり、学校の帰りに桑のみを食べたのを今でも覚えれいます。うちの田舎は蚕専業でやっていなかったですが、高学年になり、桑の木は除去され、その後、区画整理が行われました。小さいときに、親戚のうちに行ったときも蚕を飼っていました。30年前くらいには蚕は飼っていませんでした。

大学も蚕系の学校(京都のわが母校では日本にある三繊大のひとつ)だったんで、蚕には少し縁があります。繊維学部があり、そこに蚕糸学科があったと思いますが、自分が入学する頃はバイオ系の学部になり、いまは母校には繊維学部自体がなくなりました。繊維関係はバイオ系かもしくは高分子系の変わっていきました。
by 冬嫌い (2011-01-06 00:34) 

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