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『国家の品格』 [読書日記]

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)

  • 作者: 藤原 正彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 新書
出版社/著者からの内容紹介
日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論。
箱根駅伝、早稲田大学の総合優勝で終わりましたね。良かったんじゃないでしょうか。山登りで「大砲」を1人持っていればそれだけでも他校に対して優位に立てるというレース展開は、東洋大・柏原君には申し訳ないけれどあまり面白くないので、5区の早稲田の猪俣君が柏原君に抜かれても喰らいついていったシーンや、6区の高野君が凍結した路面に足を取られて転倒した後もすぐに立ち上がって追いかけたシーンは、運転中にラジオ中継を聞きながら興奮させられた。復路の7区以降の早稲田と東洋の一騎討ちも面白かった。こういう展開だと、1つ間違えば一挙に逆転もあっただろうし、逆に追走する側もハイペースで飛ばしても差が大きく縮まらなければ根負けしてかえって差が広がるという展開もあっただろう。逃げる早稲田と追う東洋の展開がこれだけの区間で見られたのは、どちらのチームも強かったという証拠だろう。

余談はこれくらいにして、記事の本題に入りましょう。この本も近所のコミセン図書室でクリスマス休暇前に借りて、返却が4日だったので急いで掲載したいと思う。読み終わったのは12月30日のことだが、記事掲載の優先順位を入れ替える中で、本日に至ってしまったというものである。

少し前に著者の自叙伝的小説『ヒコベエ』を読んだ際、この人の文章は読みやすいとの印象を受けた。2005年のベストセラーだった『国家の品格』の表紙をめくったのは僕にとっては今回が初めてだったのだが、本書についても同じような印象を受けた。

書かれている内容も、読んでいて気持ちが良くなる話が非常に多い。日本は有史以来、ずっと「異常な国」であり、遠くの国だけではなく近隣の国ともまるで異なる国なのだから、これからも「異常な国」であり続けるべきだという主張も、「異常」という言葉の適切さの問題はあるかもしれないが、「日本は特別」と言われると僕らは気分が良くなる。

ただ、読み進めていくうちに、20~30年ぐらい前の「カッパ・ブックス」や「NONブックス」あたりで五島勉氏や小室直樹氏が書いていたこととよく似ているのではないかと思えてきた。日本は特別な国であり、これからの世界を救うことができる、そうした役割を日本は担っていくべきだ、という主張は、耳には心地よく響くので、本は売れやすいだろう。20~30年前にこうした論を展開していたら、当時の日本経済は右肩上がりでイケイケ・ドンドンの時代だったから放っておいてもそうなるだろうという自信めいたものも僕らは感じていたが、今の閉塞感が漂う日本で同じ議論を展開しても、「そりゃあわかっちゃいるけど、じゃあ具体的にどうしたらいいのさ」とも言いたくなる。

本書の良くないのはまさにこの点である。「小中学校で金融リテラシー教育を行なうのは愚行だ」(p.38)、「公立小学校で英語を教えても日本から「国際人」など生まれない。英語は話すための手段であり、国際的に通用する人間になるには、先ずは国語を徹底的に固めないとダメ」(pp.39-40)、「内容がないのに英語だけ上手いという人間は、日本のイメージを傷つけている」(p.42)、「政府も官僚も「識者」と称する人たちも、「論理的に説明できることだけを教える」という教育を受けた人ばかりになり、論理的に簡単に説明できないが大切なものが切り捨てられてしまっている」(p.64)、「真のエリートは、第1に文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけ、第2にいざとなれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること。残念だがこの真のエリートが、今の日本にはいなくなってしまった」(p.84)、「欧米人の精神構造は「対立」に基づいているが、日本人は「自然との調和」を重視し、異質の価値観や宗教を、いったん受け入れた上で、日本的なものに変えて調和させてきた。日本人の美しい情緒は、戦争廃絶という人類の悲願へのカギとなる」(pp.156-157)、「数学や理論物理のような、一見するとすぐに役に立ちそうもないことを命がけでやっている人の層が厚いことこそ国家の底力」(p.162)等の主張は、一見するとどれも聞いていて心地よい。

「英語よりも中身」という主張など、欧米人やインド人と接してきて日本に関する彼らの質問に何度も説明を強いられる場面を経験した僕としては非常に賛同するものである。我が町で数年前から導入された小中一貫教育の中で小学校から英語教育をやって「国際人」の育成を謳っていた教育委員会の方針に、僕は学校説明会や公聴会等の場で反対を公言してきた。でも、家庭のレベルで我が子に「国語や歴史をもっと勉強しろ、本をもっと読め」と言うことはできるとしても、結局小学校から英語教育を導入することは規定路線で、父兄の数人が反対したところで市の方針がひっくり返るわけでもなかった。一個人としてできることには限界もあるのだ。

それなりに評論家として名が売れている人が、「日本は~すべき」という場合の「日本」の主体とは一体誰なのか、もっと具体的に言ってくれないと何も起こらない気がする。著者が今も吉祥寺界隈に住んでおられるのかどうかは知らないが、もし住んでおられたのなら、隣町の小学校での英語教育導入には反対の論陣を公の場で張って欲しかったし、もっと具体的なアクションを起こして欲しかったと思う。口で言うのは簡単だが、変化を起こすのはもっとずっと難しいものだ。
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noga

英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。

現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。

真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。

現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。

日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。

西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。

英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。

考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。

物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。

究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。

国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


by noga (2011-01-04 11:23) 

mika_m

この手の本は痛快な読み物として受け取ればそれでいいのかも知れませんよね。誰が、どうやってやるんだ、というのは、読んだ側がおのれの役割を再考することから始まるのではないでしょうか。
なんて、私は新田次郎のファンなので、息子の藤原氏にも甘くなります(苦笑)。それに、言いっぱなしの評論家とは違う、数学者としての自分の世界を持っているので好感が持てます。
奇人変人ぶりが結構好きです。(^^)b
by mika_m (2011-01-05 17:19) 

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