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『老人が社会と戦争をはじめるとき』 [読書日記]

老人が社会と戦争をはじめるとき 超高齢化社会をいかに生きるか

老人が社会と戦争をはじめるとき 超高齢化社会をいかに生きるか

  • 作者: フランク・シルマッハー
  • 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
  • 発売日: 2005/09/28
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
世界的な規模で急速に進行する社会の高齢化は、わたしたちに何をもたらすのか?そして、わたしたちは、この現象にいかに立ち向かうべきか?ドイツ国内で爆発的反響を呼び、激しい論争を巻き起こした衝撃の書。
2005年の発刊当初、店頭に並んでいる本書を見て一時は購入しようかと思ったことがあるが、見出しの少なさから読みづらそうな雰囲気があったことから思いとどまった経緯がある。市立図書館で借りて読んでみたが、慣れない「です・ます」調で書かれている上に分かりにくい比喩がやたらと多いために、理解しづらい本であった。年寄りの味方なのか若者の味方なのか、立ち位置が頻繁に入れ替わるのも理解を妨げる。訳者が次の解説をつけてくれなかったら、そもそも本書のテーマが何なのかもよくわからないところだった。
本書のテーマは、現代の長寿者、そして明日の老人であるわたしたちが、高齢になっても創造的に生きつづけられるよう、社会に流布する非生産的な「老人」の役割像に対抗する陰謀を企て、「老人像を変える」戦いをはじめなければならない、というものである。
 「老人」は「若者」よりも少なく、もう長くは生きない――現在の年金制度や税制をささえているこの前提が、まもなく正反対に変わろうとしている。このとき社会はどうなるのか?社会が期待するよりも長生きする老人はどのように扱われ、どのような気持ちで生きることになるのか?シルマッハーは、少子高齢化時代を迎えるどの社会にもくすぶりつづけている、耳に痛いこれらの疑問をはっきりと提示し、幅広い議論を喚起しようとしている。(pp.239-241)
これを全体テーマに据えているため、立木信氏の著書では「若者よ、立ち上がれ」という著者の主張の論拠として利用されている。立木氏が明らかに若者や子供達の立場に立って書いているのに対し、シルマッハーは「戦い」だの「戦争」だのぎらつく言葉は使っているものの、老人学的観点から「老人よ、卑屈になるな。胸を張れ」と言っているに過ぎないような気が、後になってみたらする。

とはいえ、ぎらついた表現も確かに目立つ―――。
 今行動を起こさなければなりません。待っていてもなにも変わらないのですから。わたしたちが政治に介入して、未来のための避難所を建てなければなりません。わたしたちには任務があります。街中の建物を老人にやさしい構造に変えなければなりません。制度も老人に合わせて変革しなければなりません。30歳であろうが、40歳であろうが、50歳であろうが、そんなことはまったく関係ないのです。わたしたちは老後のためのお金を蓄えるように無理に仕向けられています。それと同じように、こころもケアし、からだも健康に保ち、外見にも気をつかわなければなりません。これは、生活費を確保するための備えとは異なります。確保しなければならないのはアイデンティティーなのです。オハイオでの研究によれば、老人のアイデンティティーを確立することによって私たちは貴重な遺産を次世代に残していくことができるのです。わたしたちが次世代のために残すことができるもっとも貴重な遺産。それは自己嫌悪から解放された、自分自身の老いのイメージです。(pp.227-228)

 私たちの使命、それは、年をとることです。ほかの使命なんてありません。これがわたしたちの人生の課題なのです。
 50歳、60歳になることを学ぶ必要があります。社会の構成が変わることにより、みなさんの将来の誕生日はまったく新しい意義をもつようになります。黙り込んだしないで70歳や80歳、90歳になる。それがどういうことかを学ばなければなりません。
 みなさんがなにをおいてもしなければならないこと、それは生きるということです。今こんな呼びかけをしても奇妙な感じがするかもしれませんが。
 脱走や逃亡、たとえば自殺のことですが、そういったことを勧めるひとたちが、あなたのまわりにたくさんやってくることになるでしょう。みなさんはスポーツに精を出したり、健康な食生活を送ったり、老後の備えをしているかもしれません。しかし、そうこうしているうちにも、こんな書籍や論文が書かれています。それは、どのようにして道徳的に正当化できるかを根拠づける試みなのですが、なにを正当化するのかといえば、年をとったみなさんを殺すことなのです。
 敵はプロパガンダを使います。そして、あなたが自分の使命を信じるのをやめるように仕向けてくるでしょう。敵はそこかしこにあふれています。年をとったひとたち、若いひとたち。コマーシャル、メディア。人生の働ける時間を自分たちが定義してもよいのだと信じ込んで、福祉国家のために禁治産者宣言を下す官僚たち。ありとあらゆる策略が動員されて、あなたの自意識を征服し、植民地化する試みがおこなわれるでしょう。その攻撃は、鏡に映ったあなたの像からはじまり、あたなの脳で終わるのです。(p.175)
―――う~ん、やっぱ表現過激だわ。立木氏があげつらっていたのもわかる気がする。

それにしても、比喩がわかりにくい。
 わたしたちの世代にとって、自分は悪いことをしているという思い込みを捨てるのは難しいかもしれません。しかし、老吸血鬼が自分の子供たちのシャレコウベの山の上で陽気にダンスをしているようなイメージをもたれるなら、それはやはり間違いなのです。(p.130)
――そんなこと、誰もイメージしてませんて…。ただ、「わたしたちは多数派かもしれないが、ある転回点を過ぎれば弱くなり、助けが必要になるのだ」(同上)と多くの人が考えているというのはその通りだと思う。それに続く以下の記述も、細部ではドイツと日本の置かれた状況の違いが垣間見えるが、僕らが来るべき超高齢社会に関して抱く一般的なイメージとほぼ符合する。
中高齢者は将来、離婚の増加と子供の減少により、今日の老人とくれべて近親の親戚が減ることになる。また、身寄りのない『独身』の老人が増えていくと予測される。このひとたちに介護が必要になったとき、選択肢は次の2つしかない。老人ホーム、出張介護と社会サービス、家族の代わりとなる信頼できる社会網をつくること」(同上)
総人口の3~4割が65歳以上のお年寄りになるような社会を人類は今までに経験したことがない。どのような社会なのかイメージができず、議論が必ずしも盛り上がらない。著者は言う。こうした社会の多数派(高齢者)が老いの侮辱と被害を体験するのは初めてのことで、多数派である明日の老人が、明日の少数派である若者から容認されていないと感じるようになった社会では、いったい何が起こるのかと読者に問いかけている。では今日を生きる高齢者と明日の高齢者は具体的に何をやったらいいのか、意識の持ち方については意見が述べられているが、振り返ってみた時、具体的に高齢者は自ら何をやったらいいのかが意外と書かれていない。何か処方箋らしきヒントでもあればいいのだが、そうともいえない。

本書のp.61の囲み記事に「参加しない人々」というのがある。これによると、2003年時点でドイツ人の大多数は将来の問題を認識していたという。にも関わらず、自分とは関係のない先の話であるかのように捉えていたという。ドイツの人口は減少すると予想していた国民は総人口の76%、ドイツの平均寿命が長くなると考えていた国民は84%にものぼる。政治は目先の利益を追いかけ、そのせいで人口対策のような緊急になされるべき政治的決断を先延ばしにしていると考える国民は75%もいるという。人口変動の悪影響を抑えるための措置として、どれがふさわしいかという問いに対しては、ドイツ国民は次のように回答している。

 定年の延長: 賛成9%、反対76%
 
 国民年金保険料の引き上げ: 反対66~67%

 子育てをもっと支援する: 賛成83%
 
 ボランティアの促進: 賛成58%

老後になってまで働きたくない、保険料をこれ以上負担したくない、けれども誰かしらが子育て支援を拡充し、誰かがボランティアとして介護に関わってくれることは期待したいという、なんとなく虫のいい回答内容になっている。この結果を以て、著者はこう述べる。 「どうやら、この回答者たちは自分の老いを将来のシナリオから除外して考えているらしい」「このひとたちが年をとったときには、なにもしなかったことへの釈明と追徴金をきびしく迫られることになる」(p.61)

翻って日本はどうだろうか。ベビーブーマーが退職年齢に達したのは日本の場合は2007年のことだったが、ドイツは2010年である。従い、日本の方が事態は深刻なのではないかと容易に想像がつく。では僕らは自分の老いを将来の日本社会のシナリオにちゃんと組み込んで考えているだろうか。
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