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『「痴呆老人」は何を見ているか』 [読書日記]

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

  • 作者: 大井 玄
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
「私」とは何か?「世界」とは何か?人生の終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ。そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす。「つながり」から「自立」へ―、生物として生存戦略の一大転換期におかれた現代日本人の危うさを浮き彫りにする画期的論考。

タイトルにある通りの問題意識を持って読んだ。僕自身は未だ認知症の高齢者と身近で接したことがないが、それは遅かれ早かれの話だと思ったし、僕は近々ここインドでも老人ホームを訪問する計画があるため、言葉も十分わからない人間としてどのように接したらいいのかという点について少しでもヒントになるようなものが本書から得られればいいと考えた。そして、もっと言えば、僕自身がどれくらい認知症が進みそうかということも…。最近、物忘れがひどくなり、幾つかやらなければならない仕事を同時に抱えて何からどうこなしていくのか途方に暮れてすぐに判断ができなくなった。老化の過程で誰もが通らなければいけない途だとわかってはいても、不安にはなるものだ。

本書のタイトルにある疑問に対する著者なりの回答は実は既に序章で既に述べられている。
私が周りの世界につながっているためには、見たもの、聞いたこと、喋ったことを記憶しており、ここが何処で、いまは何時なのかなど見当がついていなければなりません。このつながりの喪失が、認知症の人に「不安」という根源的情動を抱かせることになります。怒りや妄想などは、存在を脅かすその不安が形を変えたもののように見えます。とは言うものの認知症の人たちは、私たちが「世界」と信じている世界と厳密につながらなくとも、それぞれの世界を記憶に基づき創りあげ、そこに意味と調和を見出している場合が多いのです。(p.7)

従って、我々の世界と情報共有・情報伝達というチャンネルでちゃんと繋がっていなくとも、心と心で繋がっているという安心感を認知症の高齢者に抱いてもらうことができれば、突然暴れたり妄想を抱いたりといった我々から見ると理解困難な言動が落ち着くだろうと著者は言う。「話を通じさせる、ではなく、心を通わすのが、認知症の老人とのコミュニケーション(意思疎通)の極意である」(p.56)と述べ、むしろ積極的には理解はせず(右から左に聞き流し)、やさしい声音でうなずいてあげるだけでいいという。笑顔を作ることで、相手に「楽しい」「嬉しい」といった情動を喚起することも重要だという。そして、高齢者の話を聞く時にどのようなポジショニングを取ればコミュニケーションが取りやすいかに注意することや、敬語を積極的に用いることにまで具体的に言及している。実践的な面では非常に役に立つ記述だ。

また、この老人が今住んでいる「世界」を知ることも重要だという。長期入所が可能な施設では、入所者の経歴に応じて多様な「世界」が存在し、入居者はその「世界」を心の拠りどころとして、周囲に適応していく。人間が人格的まとまりを保ちながら生きるために、「自信」「誇り」「自尊心」といった、現在の「自我」を支える心理作用あるいは「自我防御機制」が働いているという。従って、我々は、認知症の人と接する場合、最大限の敬意を払って近付き、彼らの拠りどころとなる「世界」への扉を開くキーワードを把握して、その「世界」とのつながりを保証することが最も実践的なマナーであると述べている(pp.75-79)。
彼ら(註:進行がんを持つ人々)が「それでも健康」だと感ずる所以は、自分が社会や周りの人たちに有用で、受け入れられているという実感であるようでした。
 年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があれば、その人は「健康」でありうる。老年期はいわば長く延びたグレイゾーンであって、「病気」と思うと「病気」、「健康」と思うと「健康」といった心理現象が日常的に起こります。(p.162)
認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、次のような取組みによって形成されると考えられる。

 ①周囲が年長者への敬意を常に示すこと、
 ②ゆったりとした時間を共有すること、
 ③彼らの認知機能を試したりしないこと、
 ④好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと、
 ⑤言語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用する。

これらを見渡してみて僕がふと思い出したのは、徳島県上勝町で「いろどり」事業に携わる高齢の生産農家の方々と、こうしたお年寄りと接する横石氏の接し方であった。

ところが本書は途中から認知症の高齢者とは全く違う、若者の「引きこもり」という現象に対しても考察が展開されていく。
最初は記憶などの認知能力の衰えた人たち(わたしを含めて)の視点から考えようとしました。しかしそのうちに、若くても世界とつながることができず煩悶している人たちの姿が見えてきて、「世とつながる」という働きの奥行きを思い知らされました。(p.222)

 認知症の人は、自分と世界をつなぐ認知能力が失われるにつれ、認知機能を用いざるを得ない局面で、きわめて不安になります。不安はすぐ怒る(易怒性)方向に現れたり、仮想現実にひきこもる現象に変容したりします。しかし、その根底にある心理的ダイナミズムは、世界とつながりえない状況における自己防御的対応であるようです。
 若い人でも世界とのつながり形成不全がある場合、やはり同様の現象が観察されます。軽度のものならば、「キレやすさ」として多くの日本人に認められるようになりました。(中略)過去の乏しい経験に基づく規範的自制なぞは、筋金入りの「つながりの自己」から見るとひどく弱々しいものです。どのように判断し、行動すべきか判らない状況で生ずる不安が、すぐに「キレる」という行動に転化してしまうのは不思議ではないでしょう。(pp.191-192)
本書によると、キレたり引きこもったりする若者の特徴として典型的な日本人の特性を有している者が陥りやすいと述べている。元々日本人には祖先、子々孫々、自然、共同体などが構成する世界とつながっているという(深層心理的)感覚があったという。それが時代が変わり、現在の日本社会では、多くの人が、アメリカのような開放系の世界で作られた、各個人はプライバシーなどの権利を持つ独立した思考・判断・行為主体であるという人間観を受け入れるようになってきた。そこでは「つながり」の視点が欠落している。従って、そうした開放系の社会にうまく適応できず、伝統的に閉鎖系の世界で作られた日本社会における人間としては真っ当な人ほど、この基礎感覚を見失うことで認知能力が低下したり引きこもったりするという行動に陥りやすいのだと分析している。

そういうのを読んでいくと、僕が常々子供達によく言っている「自分で考えろ」という突き放した態度は必ずしも適切とはいえないということもわかるし、また、万が一にでも引きこもりのような行動選択をしてしまった子供や若者は、将来的に認知症的特徴を早い段階から示すようになる可能性が高いのではないかというのもわかった。かく言う僕なんかも「引きこもり」の傾向がなきにしもあらずで、今のようなことをやっていたら早く認知能力低下を招いてしまうかもしれないと不安に駆られた。
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