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Sanchaiの「名古屋物語」 [備忘録]

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前回、奥田英朗著『東京物語』を読んで、なんだか無性に昔が懐かしくなってしまったので、1つこのテーマで思い出話でも書いてみようと思う。

上の写真は名古屋市錦三丁目の今の風景。先月一時帰国中に仕事の打合せで地下鉄伏見駅近くのある会社を訪問する機会があったが、懐かしかったので名古屋駅から桜通沿いに歩いて錦三丁目あたりをブラブラした。

今から丁度20年前、僕はこの地で社会人としてのスタートを切った。

左手奥の黒っぽいビルは昔はなく、そこには明治時代に建てられたのかと思わせるような2階建の古い建物と駐車場があった。社会人1年目の僕は、もう1人の同期生と一緒に、他の社員の方々よりも30分早い7時30分には出社し、この一角のゴミ拾いをするのが日課だった。横断歩道の前にはタバコの吸い殻がやたらと落ちていた。ポイ捨てが許されていたそんな時代だ。そして、掃除も外注するのではなく、やれる掃除は社員が自分達でちゃんとやっていた時代でもあった。たとえ前夜残業して社員寮に帰着するのが夜中の2時3時であってもそれは変わらなかった。商売やってるんだから営業時間前にオフィスでスタンバイするのは当たり前のことだった。

職場では先輩や同僚にとても恵まれていた。残業もたまに極端に遅くなることはあったが、その時はマイカー通勤していた先輩が寮まで送って下さったこともある。新人だからと短期間に複数の部署をローテーションして見習い修行をして過ごしたが、半年経ってある部署に落ち着いたところ、そこから半年は固定され、丁度オンラインシステムの入れ替え時期とも重なり、最初にそのシステムの操作方法を覚えたことで、上司からも怒鳴られることなくなんとか過ごせた。その部署に異動する前は、いちばん世話になった先輩がその上司にボロクソに怒られるのを何度も見ており、かなり戦々恐々として部署換えの日を迎えたのだけれど。

また、僕が最初に勤めた会社は東海地方に幾つか店舗を持っていたが、この錦三丁目の支店はかなりの大所帯で、同期入社でここに配属になったのが男子でもう1人、女子で5人いた。同期生がそれだけ揃っていればアフター5はそれなりに賑やかで、僕は7時ぐらいじゃないと合流できなかったが、よく栄に飲みに繰り出した。他の店舗の同期生と連れ立って知多半島ドライブってのもあったし、1年生は組合活動の人身御供のようなところもあったので、組合主催のキャンプといえば僕らは主力だった。大量に花火を買って出かけた。

初月給は、月並みながら両親に何か買った(何買ったか覚えてないけど)。夏休みは職場一斉に取るわけじゃなくて社員がローテーション組んで1週間まとめて取ったりしていたが、新人は時期が選べず、本当に休みたい時期は先輩方に譲り、僕は6月に1週間取った。父に車を借り、出かけたのは能登半島一周の一人旅。

能登島の民宿で泊まっている時に中国では天安門事件が起きていた。

初ボーナスは確か11月だったような気がするが、池下の楽器店に行ってテナー・サックスを買った。シカゴのファンだったのだ。この夏、シカゴは日本ツアーを行ない、笹島のレインボーホールでも公演を行なった。僕はチケットを2枚購入し、その頃とても気になっていた女性をさんざん逡巡した挙句コンサートの1週間前になってようやく誘った。いったんOKをもらっていたが当日になってやっぱり行けないと連絡があり、どうしょうもなくて1人で行った。(彼女には「会社の先輩に行ってもらった」と嘘ついたが…)行ってシカゴのブラス・ロックにしびれてしまった。僕は今でもそれほど音楽にはこだわりがないが、誰が好きかと聞かれれば「シカゴ」と答える。

買ってみてわかったのだが、サックスは独習がなかなかできない。しかも、初心者のうちは恥ずかしさもあってたとえド田舎であっても練習場所の確保が難しいこともわかった。多少吹けるようになるのはその後東京に異動して個人レッスンを受けるようになってからだった。代わり、といっては何だが、何となくギターでも練習しようかと思い、八事の一心寺の集会所で行なわれていたギター教室に土曜夕方に通った。これも秋以降のことだったと覚えている。

週末は岐阜の実家でよく過ごした。小学校時代の友人とつるんで大垣のプールバーとかカフェバーとかにはよく行っていた。先ほど述べた、気になっていた女性というのは岐阜市の人だったので、シカゴのコンサートに一緒に行けなかったのは別としても、週末たまに会ったことがある。今思えばあれがデートと言えるのかどうかもわからない。自宅に電話して誘う時は毎回緊張しまくっていたが、面と向かって告白したことがなかったから。多分、相手の方は薄々はわかっていたんだろうとは思うけれど。

英検1級を取ってから入社したので、会社にはそれなりに重宝がられた。土曜日に社員向け英語研修をやることになった。講師は会社の取引先のお嬢さんで、僕はアシスタントで付けと言われ、半年ほどお手伝いをした。2週間に1回程度の頻度だったと思うが土曜の午前中は岐阜市の北にあった会社の研修所に出かけた。また、高校時代の3年間通った大垣ルーテル教会の日曜夕方の英語クラスにも久し振りに顔を出した。大学卒業前の米国旅行で泊めてもらったアイオワ州チャールズシティのロッティングハウス夫妻が、1989年の年末年始と日本に遊びに来てくれて、我が家にも泊まっていった。短い滞在期間の間に京都にも案内したが、その際には会社の英語研修の講師の先生にも一緒に来ていただいた。

その年の大納会の日に東証株価指数は下落に転じ、開けて1990年の大発会の日に大幅に下げた。バブル崩壊の始まりだった。

会社の中でも僕の英語力が頭抜けていたのはわかっていたので、なんとなく、名古屋の次は東京ではないかという予感はあった。3年ぐらいは名古屋で下積みだと腹を括っていたら、なんと1年で異動。3月下旬に内示を受けて4月1日付で東京と聞かされて耳を疑った。お陰で、3ヵ年計画でじっくり熟成中だった彼女への恋心は、成就することも玉砕することもなく終わってしまった。異動の内示を受けてから名古屋港に一緒に出かけたが、東京転勤が決まった話をしてそれっきりだった。次の言葉も繰り出せずに別れた。

後悔するとしたらこの時ちゃんと自分の気持ちを伝えなかったの自分の不甲斐なさだ。

東京での仕事が始まった後も、帰省する機会に会ったこともあるけれど、1992年にその会社を辞める決心をし、今僕が勤めている会社の試験を受けて内定をもらった後の帰省で会ったのが最後になった。世界のどこに行かされるのかもわからないので、昔のことを引きずっててもしょうがないかなと思ったからだが、後になって風の便りで彼女が高校時代の同級生と結婚して埼玉の朝霞に住んでいると聞き、それだったらアタックしてみればよかったと思ったがもう後の祭りだ。

1989年度(平成元年度)というのは、就職直後の慌ただしさが落ち着いてから年度末に異動内示を受けるまで、実にいろいろなことを活発にやってたのが印象的だ。東京での学生時代のことは忘れ、名古屋での生活がこのまま3年ぐらい続けばいいなと本気で思っていた。20年後にインドにいる自分なんてまったく想像もできなかった頃の話である。

以上、雑駁ながら20年前の名古屋の思い出であった。
(あー、なんかこのシリーズ、もうちょっとやりたくなったなぁ。)
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たいせい

 私は今も昔も愛知県なのですが、遠方よりのお客様を案内する際に必ずコースに入れるのが「あんかけスパ」「台湾ラーメン」「醤油味のたこ焼き」「小倉トースト」などの名古屋B級グルメ。
 昔名古屋で過ごしていらした方も、結構懐かしいと言われる方が多いように思うのですが、想い出に刻み込まれていらっしゃいますか?
by たいせい (2009-07-28 21:50) 

Sanchai

☆たいせいさん、nice&コメントありがとうございます!☆
「小倉トースト」は、朝早めに出勤する際に錦三丁目の職場の近くの喫茶店でモーニングでよく食べていました。これを食べながら「中日スポーツ」ってのが定番でした。

「台湾ラーメン」は上社の社員寮の近くの定食屋の定番メニューで、寮の食堂が閉まっている週末、特に日曜日の夜に時々食べに行っていました。そうやって食べた後、一息ついて近くの電話ボックスから憧れの彼女に緊張しながら電話をしたりしてました(笑)。

「あんかけスパ」と「醤油味のたこ焼き」にまつわる思い出というのは残念ながらないです。ゴメンナサイ。
by Sanchai (2009-07-29 01:15) 

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