『絶対貧困』 [読書日記]
出版社/著者からの内容紹介明日から2日連続でインド活動報告会をやります。1つは本当に活動報告なので話しやすいのですが、もう1つの方はむしろインドを知らない人に向かってインドの人と社会についてしゃべるというものなので、正直少し気が重いです。そんなわけで、テーマ的に偏った学術論文だけじゃなく、僕が未だ足を踏み入れていないインドの領域についても少しぐらい知っておこうと思い、最後の悪あがきでこの本を読んだ。
スラム、物乞い、ストリートチルドレン、売春婦の生と性......
1日1ドル以下で暮らす人々と寝起きを共にした気鋭のノンフィクション作家が語る本邦初の「世界リアル貧困学講義」、あなたの人間観、世界観が変わる一冊!
スラムの住人は、何を食らい、どこで愛し合うのか。路上の物乞いは、どうやって、いくらぐらい稼いでいるのか。ストリートチルドレンや売春婦が求める笑いや愛情とは何か。マフィアが行う貧困ビジネスとはどういうものか。これまで、メディアが目をそむけてきた「絶対貧困」に生きる人々の息吹きを、多くの写真やイラストを使って伝えます。日本一受けてみたい、泣けて、笑えて、学べる授業です!
決してインドに関する本ではないが、さすがにテーマが「絶対貧困」となると当然インドの描写が沢山出てくる。石井光太さんの著書は『物乞う仏陀』以来2冊目の挑戦であるが、実際にスラムの住民に密着してそこでの暮らしを体験する中で得られたジャーナリスト石井光太の知見はさすがに違う。長年途上国の貧困問題には関心を持って取り組んできたけれど、それでも僕は知らなかったことが幾つかあった。
詳細は実際に手にとって読んでみて下さい。この本はお薦めです。多くの人に読んで欲しいから、これからもいろいろなところで宣伝していきたいと思う。
都市部における絶対貧困の状況を、スラム、路上生活、売春の3部構成にて描いている。このような主題は雑誌やテレビ映像で見るとただただ悲惨な生活としか描かれていないことが多いが、これを悲壮感もなく淡々と描いている。時としてコミカルなエピソードも交えて。本書の前書きにこう書かれている。
これまで貧困問題というと、「青少年のための議論」ばかりがなされてきました。世の中の不条理が集まる汚い世界なのに清純なテーマばかりが取り上げられてきたのです。マスコミがつくり上げる「涙を浮かべる栄養失調の子供」の姿などがその象徴でしょう。そのドライで客観的な描き方がステレオタイプ化した情報とは違う石井光太流の情報発信なのだ。本書に挿入されている写真の数も半端ではないが、そこから垣間見える都市貧困の現場には、人間の人間らしい営みはあるが、悲壮感ばかりが伝わってくるというわけではない。人は与えられた状況の中でベストと思える判断をして、淡々と生活を営み、そして、おそらく富裕層ほど長くは生きられない人生をまっとうしていくのだということを気付かされる。
もちろん、それはそれで1つの側面として間違ってはいません。しかし、スラムだって路上だって、売春宿だって、そこで生きているのは私たちと同じ人間なのです。恋もすれば、嫉妬もするし、自慰だって不倫だってするわけで、かならずしも涙に暮れた純粋無垢な被害者しかいないわけではないのです。(pp.5-6)
あまり内容を紹介してしまうよりも本書を読んで欲しいと思うが、僕自身が「へぇ」と思ったことを幾つか挙げておきたいと思う。
◆スラム食はどこでも大抵共通して火や油を使った料理が多い。
◆スラム住民はお金がないため、カロリーの高いチキンだけを買って食べて、ビタミンなどはすべて市販の錠剤で補っていた。しかもカロリーの高い肉だけを食べている割には失業して仕事がないため、意外なことにスラムの住民の中には肥満な人が多い。
◆アジアでは路上生活者は庶民の中に溶け込むようにして暮らしていることが多いが、アフリカの場合は町の一般庶民は路上生活者を恐れて近づこうとせず、徹底的に無視して関わらないようにしている。そのため、路上生活者の中には「何をやっても大丈夫だ」という風潮が広がり、堂々と道端でドラッグを摂取したり、強盗事件や暴力事件を起こすようになっていく。
◆路上生活者の中には重婚が非常に多い。彼らはそもそも社会から見捨てられて、法や制度とは無縁の暮らしをしているため、役所に届けて認めてもらおうという発想がない。また、届けを出したくても連絡先も住所もなければ、文字の読み書きもできないという事情がある。路上生活者には婚姻届けを出す意味も能力もない。
◆結婚回数も多いので、子供の数も増えていく。路上生活者は始めから貧しく、子育てを子供に託してしまうので、出産にためらいがなく、5人も6人も産んでいく。こうして、教育を受けていない人がどんどん増えていってしまう。(避妊よりも、人工妊娠中絶よりも、出産の方が安上がりだったりする。)
◆物乞いの世界には、外見的な悲惨さによってヒエラルキーがある。それによって得られる金額も違ってくる。悲惨であればあるほどお金がもらえるため、重度の障害者や病人はヒエラルキーのトップに君臨して街の中心部で稼いだり寝泊りしたりできるが、軽度の障害者や健常者は町の周縁部の条件の悪い場所に追いやられている。
◆イスラム教の場合、コーランには「宗教心があるなら物乞いに快く喜捨しろ」と書かれている。仏教やヒンドゥー教の場合は、喜捨は自らの業を高いものにするための手段だと捉えられている。これらは一種の「宗教という名の福祉のセーフティネット」といえる。途上国では福祉制度が整っていないので、福祉制度の代わりとして、宗教が喜捨というシステムで貧しい人に最低限の生活を保障している。
◆女性の人身売買行為は、田舎のチンピラが1万円とか2万円ぐらいの借金に困って、知り合いの貧しい娘を騙して売春宿へ売り飛ばすぐらいの規模で行なわれているのが大半。女性の側でも、お金に困って自分から働きに来たり、出稼ぎと割り切って一時的に働いている人が大多数で、人身売買による強制売春の被害者は見つけることが難しいぐらい少ない。
◆売春宿で暮らす子供達を「かわいそう」と考えるのは失礼にあたるのかもしれない。その子供達の母親はこのように語っている。「わたしは、娘を絶対に売春婦にさせたくないの。だから、いま売春婦になって働いているのよ。そうすればご飯も食べさせてあげられるし、日中は学校へ通わせてあげられるでしょ。たぶん、娘が大きくなれば、売春婦であるわたしを軽蔑すると思うわ。けどそうなってくれれば、彼女が売春婦になることはなくなるはずだわ。そうやってしっかりとした人間になってくれれば良いのよ。」
―――読みたくなりませんか?
因みに、デリーに住んでいても、南アジアの他の都市を訪れても、大抵の場合物乞いや物売りに追いかけられるという経験をする。そういう場合どうしたらいいですかというのはよく聞かれる質問だ。そして、本書の著者の場合、取材結果に基づき、通説として僕達がよく言うのとは別の回答を準備している。
日本人が途上国で物売りや物乞いを前にした時、よく発する言葉があります。「彼らに一々お金をあげても何の解決にもならないし、キリがない。だからあげるべきじゃない」―――失礼しました。私も第1パラに書かれているようなことを何度か言ったことがあります。ああこういう見方もあるのだなと気付かされました。
たしかにそういう見方もできるでしょう。しかし、彼らの収入を見ればわかるように、みなギリギリのその日暮らしをしているのです。もしあなたが買ってあげなければ、彼らはその日ご飯を食べることができないかもしれないのです。もしそれが何日もつづけば体を売ったり、犯罪行為に手を染めるしかなくなってしまうのです。そうした現実を前に、「解決にならない」とか「キリがない」と言ってたった数十円をケチるのはどうなのでしょう。そもそも、なぜその程度の買い物や喜捨を小難しく、交渉に考えなければならないのか私にはわかりません。
(p.150)
本書は挿入写真が非常に多いので、それだけでも都市の絶対貧困がビビッドに伝わってくると思うが、これに今年度アカデミー賞作品賞を受賞した『スラムドッグ・ミリオネア』を観ると、ますます状況が理解しやすいと思う。スラムの子供達の屈託のない躍動感が描かれているが、本書を読んでみるとなるほどと思わされるところが多い。
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