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『医療格差の時代』 [読書日記]

医療格差の時代 (ちくま新書)

医療格差の時代 (ちくま新書)

  • 作者: 米山 公啓
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/07
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
医療行政の迷走により、日本の医療が歪みはじめている。診察費が支払えない弱者、介護施設から追い出される高齢者、過剰労働でダウン寸前の勤務医たち。もはや現今の日本では平等医療が崩壊した。悲鳴をあげる現場の実態をレポートし、医者側と患者側の双方に生じている課題を克明に語る。
飛行機や車での長時間の移動はまとめて読み物をするのに最適の時間である。ビハールへの旅では、車での移動が8時間にも及んだ。勿論日が暮れてからの移動もあったし、僕はどこを訪れる時も往路だけはその町その村の生活環境がどのようなものなのかを周囲の風景からイメージして面談に向けた仮説を作る作業を頭の中でしているので、本を読んだりはしない。だから読んでいたのは日中の訪問先から戻る途中の2時間ぐらいだっただろう。これと行きの飛行機の機内を合わせ、携行していた本書を読み切った。

今の医療制度の問題をコンパクトにまとめた1冊である。しかも、ジャーナリストのような外野からの評論ではなく、今も現役で神経内科医をされている方が書かれている。従って、各章で述べられている問題の掘り下げ方も非常に深い。研修医制度の変更で自治体病院から大学病院への医師の引き揚げが起きたことは医療崩壊を扱った最近の本では必ず出てくることだが、それではなぜ大学病院は自治体病院に派遣していた医師を引き揚げなければいけなくなったのか、その背景の部分を相当にミクロなところまで突っ込んで描かれている。今の医療従事者のうち、医師を取り巻く環境を知るには最適の1冊だろう。

だが、逆に医師の目線に近いところで描かれていることで、「現状は現場の医師だけでは変えようがないのだ」という諦めにも近い本音が透けて見えるような気もしてしまった。全ては医療行政の失策で責められるべきは政府なのかもしれないが、何だか問題点の指摘に留まっていて、問題解決に向けた方向性は主語は省かれているがどれもお上か大学・病院のマネジメントレベルにかかっているのだというところで議論がとどまってしまっている。問題は問題なのだろうが、そんな中でも変化を起こそうという現場での取組みはないのかというところで物足りなさを正直感じてしまった。

それに、本書は著者がいろいろな場で寄稿されてきたエッセイ等の寄せ集めのようにも思える。各章の間の関連性も弱いし、章の中でも各節の間の関連性が弱くて、ある節から次の節に読み進めると、どういう展開でそうなるのかよくわからないという、一種迷路にはまってしまう感覚にも襲われた。本としての纏まりはかなり弱いという印象である。

とはいえ、各節で指摘されていることはごもっともで、こんなに短期間に医療の現場が壊れていったのには必ずはっきりとした原因があると思う。それが何かは言わずもがなだろう。
 わが国の医療費の抑制政策によって、各医療機関は収入が減った。その結果、病院が行ったことは人件費の削減である。少なくとも10年前よりは、医療機関で働く人の環境は悪くなっている。(p.53)

 いまのように、患者側の要求だけが強くなり、医者の労働条件が厳しくなっていけば、医者不足の診療科目は増えていくはずだ。医療以外の他の職種であれば、労働条件によって労働力の需要と供給のバランスが変わるのは当然だ。それと同じことが、いま医療の中で起きているにすぎない。
 これまでそれが起きなかったのは、絶大な主任教授の権力と医局という閉鎖された組織があったからだ。医者たちが自分たちの将来を、自分で選択しはじめたことが、婦人科や小児科の医者の働く場が変わってきた理由なのだ。(pp.115-116)

 医者は、医療費抑制のために国から締めつけられる。他方、患者は「医療は絶対的で、安心できるものだ」というイメージを植え込まれている。これでは、いつまでたっても医者に向けられるまなざしは期待と攻撃の入り混じったものであり、国の政策と患者の要求の狭間で、ジレンマに引き裂かれてしまう。医療費抑制政策を推し進めれば、結局は医療の崩壊をもたらし、最終的には患者が追いつめられてしまう。私たちはイギリスの医療事情を他山の石とすべきだろう。(p.186)

また、先ほど「まとまりがない」と述べた典型が第1章の「特定健診なんかいらない」である。メタボ健診なんかいらないというのが著者の論点であるが、次の第2章「平等医療の崩壊」とはあまり繋がりがない。共通するところを敢えて見出すとすれば、政府の医療費抑制政策がいろいろな歪みをもたらしたのだという1点についてのみであろう。
厚生労働省は、「医療費削減のためにメタボ健診を行う」といっているが、その主張はまったく無意味であり、かえって医療費を押し上げる可能性のほうが高い。(pp.27-28)

 食べすぎることの原因が職場でのストレスであったり、仕事での過労であったり、休みの少なさであったとしても、そうした属人的な生活環境が考慮されることはない。
 病気はそんなに単純な理由で起きるものではない。もっと社会全体の責任としてとらえる視点がなければ、根本的に解決することはできないはずだ。
 自転車に乗れ、ウォーキングをしろといっても、その時間もなければ、ゆっくり楽しめる場所もない。昼食時間をゆったり取れれば早食いにもならず、余計なカロリーをとらないかもしれない。
 コンビニ、ファミレスといった非常に安価で食事を提供する店が、24時間で営業している生活環境が本当にいいのだろうか。こういった点にまで視野を広げ、巨視的な観点から健康管理を考える必要がある。(p.29)
うちの会社の顧問医にも聞かせてやりたい言葉である。我が社は最近本社の昼休みの時間を1時間から45分に短縮したが、そんなことをやっていたら早食いせざるを得なくなるだろうからメタボ対策に逆行している。今の医療行政が、「自己管理を怠った奴は結果に対して責任を取るべき」というのをかなり鮮明にしてきているから僕だって仕方なくかなり強い意志を持って体重管理に取り組んではいるが、正直なところ、腹囲周計85cm、体重65kgなどという、体育会剣道部でバリバリ運動をやっていた高校生時代の体型に戻すことが45歳のオヤジの健康であり、戻せなければお前の責任だと言われても困ってしまう。無理なダイエットなどやってたらかえってどこかで体の異常を来すのではないかとも気にもなる。

8日(金)、僕の会社の何代か前の先輩がお亡くなりになられたという悲報が会社のイントラネットで流れていた。52歳、何が死因だったのかはわからなかったが、漏れ聞こえてきたところでは過労で倒れられたのだという。別にダイエットでご苦労されていた方とはお見受けはしないが、過労で倒れられたと聞くととてもいたたまれない気持ちになる。明日は我が身かもしれないし、どんどん人を減らされてそれでも成果は求められるという締め付けが厳しくなってきていると感じる。

そんな中で、自分が最短距離で成果をあげるのに足を引っ張る者に対する寛容がどんどん失われているような気がする。職場のデキナイ君、必要以上に細かく厳しい上司、メールを多用してしかも内容がいつもキツイ奴或いは意味不明の長文のメールを出す奴、やたらと期限付きの作業の指示を出してくる本社、しかもその作業指示にご丁寧に作業要領までちゃんと作ってあって「こんなもの作っているのがお前の仕事なのか」と苦笑せざるを得ない一部の担当者―――そのような者に対して、憐みどころか怒りを感じている自分に気付かされる。そういう人々に不幸があったとしても、自分が悲しみの前に「ざまあみろ」と思ってしまうのではないかと考えると、それ自体が非常に寂しく、悲しい。
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