ビハール州での結婚式 [旅行]
仕事上でちょっと付き合いのあるニータ嬢が、4月のある日突然僕の職場を訪れ、今度結婚するというので招待状を持ってきた。「いいよ」と安請け合いしたが、招待状のに書かれた式場の住所を見て驚いた。ビハール州ムザファルプール(Muzaffarpur)とある。「ビハールの結婚式を見れるいい機会だから、是非来て下さい」――ニータ嬢からそうお願いされた。
それで行ってきましたムザファルプール。ビハール州の州都パトナから北上すること2時間少々。夜20時に間に合うように18時にパトナを出たが、しっかり遅刻した。1ヵ所片側交互通行の小さな橋があるのだ。プログラムによれば、花婿到着(「dwarchar」と言うらしい)が20時、夕食が21時、結婚式(marriage)は「夜(At Night)」とだけある。そもそもインドに来て結婚式に出たことがなかった僕は、このスケジュールなら食事の途中で退席すれば日付が変わる前にパトナのホテルに帰り着けると計算した。翌朝9時過ぎのフライトでデリーに戻る予定だからだ。
遅れて着いたと思い、恐縮しながら会場入り。でもそこはいたってのどかな風景。客の集まりもまばらだった。ニータ嬢の父上から歓待を受け、ますます恐縮する。ニータ嬢は美容院から未だ戻って来てないし、演奏するオッチャンたちは手持無沙汰で地べたに座ってチューニングをしている。僕もすることがなく、ニータ嬢の従弟だという地元の子供達シュバム君、ローシャン君と英会話のお相手。ローシャン君は12歳でうちの長男と同い年だが、英語上手いな。もう少し上の世代の地元の若者達は英語もあまりまともに話せなかったようだが、この2人はとても上手かった。世代が若くなるにつれて、地元でもいい教育が受けられるようになりつつあるのだろう。
いつまでも花婿が到着しないのでイライラして、もうそろそろお暇しようかと何度も何度も考えた。その度に、ニータ嬢のお父上から、「それだったら夕食食べてけ」だの「もう2人日本からお客さんが来る予定だから、そのお客さんが到着するまでいてくれ」だの「花婿はもう向こうの家を出たそうだ」だの「あと10分だから」だの(しかもこれを2回!)と引き留められ、苛立つレンタカーの運ちゃんの白い目線も気にしながら、仕方なく留まった。
そのうちに日本からのお客様も会場到着。僕の知り合いであるパヌさんの案内で来られたのは、ニータ嬢が2006年にJICAの研修で日本を訪れた際にホストファミリーを務められた山口県立大学大学院の相原先生御夫妻。お名前はパヌさんから伺っていたが、お勤めの大学が山口県立大学だと聞き僕も存じ上げているO先生のお名前を出したところ、「自分の前任です」ということでこれまたビックリ。意外なところで意外な接点があるものだ。
さて、散々じらされた挙句、花婿のご到着は何と22時45分! しかも、会場到着したからといってもなかなか車から降りてこない。車から降りるのにもいろいろ儀式があるようで、ここでまたまた10分近い立ち見。会場ではBGM音楽業者が大音量でボリウッド音楽をガンガン鳴らし、待ちきれない地元の子供達は「ダンス・ダンス・レボリューション」を想わせる即席ステージで踊り狂う。恐るべしインドの結婚式だ。
花婿ディーパック君はようやく車を降りると、用意されたステージの「玉座」へと直行。花嫁来場を待つ。そこでも写真撮影会が始まる。新郎の友人が入れ替わり立ち替わりで一緒に写真を撮る。
そしていよいよ新婦入場!時刻は23時を回った。(おい、3時間遅いよ…)
いつもは陽気で笑顔を絶やさないニータ嬢も結構緊張気味。取り巻く若い女性(多分妹とか?)のエスコートで徐々に徐々に会場に歩み寄る。いやぁ、凄いゴージャスな衣装。とてもここがインド最貧困州ビハールの心臓部とも言える田舎町とは思えない。(途中の街路は舗装もされてなかってけど。)
ようやく新郎新婦が着席したところで、またもや写真撮影会開始。時刻は23時15分。さすがにもう待てないと思い、何枚か新郎新婦の写真を撮った後、相原先生御夫妻とパヌさんに別れを告げ、会場を後にした。
ディーパック君、ニータさん、末長くお幸せに!!
僕は自分達の結婚式をここまでゴージャスにはやらなかった。家族や親戚は呼んだが、友人知人は呼ばず、ましてや妻の実家の隣組の方々はお招きしたが僕の方はそれもやらなかった。日本の結婚式はどんどんシンプルになってきていると思うけど、インドの結婚式は家と家の関係構築であり、しかも地域の住民の多くの人々から祝福も受ける。ちょっと前まで日本にもあったと思うが、今は見なくなったような気がする。
それにしても、新郎新婦は両名ともデリー郊外のノイダに住んでいるのに、なんで式はビハールなのという疑問は当然湧く。新婚生活もデリーでスタートだからだ。それでも2人の親ともここビハール州ムザファルプール出身だということで、式はここでやって地元の人々にお披露目するのだという。普段は遠く離れてデリーに住んでいても、非常に強固な地縁関係を感じる。
さて、こうして僕は23時20分過ぎにようやく会場を後にした。後はパトナまで街道一直線、交通量も減ってぶっ飛ばせば1時間30分ぐらいで着くかなと思っていたが―――考えが甘かった。
先述した片側一車線交互通行の例の橋でパトナ方面行きの車が完全ストップ。なんと1時間近く動かなかった。さらには深夜にも関わらず夜行列車の踏切通過待ちを2回も経験、こちらの踏切はいったん下りると開くまでが長い。そんなこんなでパトナのホテルに戻ったのは午前2時過ぎだった。しかも、ホテルの受付にはスタッフがおらず、少し待ったがもう駄目だと受付フロント側に入り込んで勝手に部屋の鍵を取り出した。午前3時過ぎにようやく就寝―――しかし、話しはそれだけでは済まなかった。
翌日(7日)はインド下院総選挙4回目の投票日。ビハール州でも、ガンジス河以南の各県では投票日を迎えた。州都パトナも同様。そこで、群衆の暴動を恐れた市警察当局は市内の車両交通を午前7時以降完全閉鎖すると6日夕方に発表した。ビハール州南部は、これまでの投票でもちょっと荒れたのだ。
朝9時過ぎのフライトだから僕は7時半にホテルを出れば十分間に合うと思っていたが、念のために朝5時起きして身支度を整え、6時にフロントに電話を入れたところ、「今すぐチェックアウトして空港に向かえ」と言われた。慌ててそうした。チェックアウトを済ませていると、同じフライトに搭乗予定の客がもう1人いるのでちょっと待っててくれと言われた。
その女性が優雅にロビーに現れたのは6時30分を回っていた。悪びれる様子もなく。全くインド人の典型だ。「急げ」と言われて慌てても損するのは外国人だけだ(苦笑)。
それで行ってきましたムザファルプール。ビハール州の州都パトナから北上すること2時間少々。夜20時に間に合うように18時にパトナを出たが、しっかり遅刻した。1ヵ所片側交互通行の小さな橋があるのだ。プログラムによれば、花婿到着(「dwarchar」と言うらしい)が20時、夕食が21時、結婚式(marriage)は「夜(At Night)」とだけある。そもそもインドに来て結婚式に出たことがなかった僕は、このスケジュールなら食事の途中で退席すれば日付が変わる前にパトナのホテルに帰り着けると計算した。翌朝9時過ぎのフライトでデリーに戻る予定だからだ。
遅れて着いたと思い、恐縮しながら会場入り。でもそこはいたってのどかな風景。客の集まりもまばらだった。ニータ嬢の父上から歓待を受け、ますます恐縮する。ニータ嬢は美容院から未だ戻って来てないし、演奏するオッチャンたちは手持無沙汰で地べたに座ってチューニングをしている。僕もすることがなく、ニータ嬢の従弟だという地元の子供達シュバム君、ローシャン君と英会話のお相手。ローシャン君は12歳でうちの長男と同い年だが、英語上手いな。もう少し上の世代の地元の若者達は英語もあまりまともに話せなかったようだが、この2人はとても上手かった。世代が若くなるにつれて、地元でもいい教育が受けられるようになりつつあるのだろう。
いつまでも花婿が到着しないのでイライラして、もうそろそろお暇しようかと何度も何度も考えた。その度に、ニータ嬢のお父上から、「それだったら夕食食べてけ」だの「もう2人日本からお客さんが来る予定だから、そのお客さんが到着するまでいてくれ」だの「花婿はもう向こうの家を出たそうだ」だの「あと10分だから」だの(しかもこれを2回!)と引き留められ、苛立つレンタカーの運ちゃんの白い目線も気にしながら、仕方なく留まった。
そのうちに日本からのお客様も会場到着。僕の知り合いであるパヌさんの案内で来られたのは、ニータ嬢が2006年にJICAの研修で日本を訪れた際にホストファミリーを務められた山口県立大学大学院の相原先生御夫妻。お名前はパヌさんから伺っていたが、お勤めの大学が山口県立大学だと聞き僕も存じ上げているO先生のお名前を出したところ、「自分の前任です」ということでこれまたビックリ。意外なところで意外な接点があるものだ。
さて、散々じらされた挙句、花婿のご到着は何と22時45分! しかも、会場到着したからといってもなかなか車から降りてこない。車から降りるのにもいろいろ儀式があるようで、ここでまたまた10分近い立ち見。会場ではBGM音楽業者が大音量でボリウッド音楽をガンガン鳴らし、待ちきれない地元の子供達は「ダンス・ダンス・レボリューション」を想わせる即席ステージで踊り狂う。恐るべしインドの結婚式だ。
花婿ディーパック君はようやく車を降りると、用意されたステージの「玉座」へと直行。花嫁来場を待つ。そこでも写真撮影会が始まる。新郎の友人が入れ替わり立ち替わりで一緒に写真を撮る。
そしていよいよ新婦入場!時刻は23時を回った。(おい、3時間遅いよ…)
いつもは陽気で笑顔を絶やさないニータ嬢も結構緊張気味。取り巻く若い女性(多分妹とか?)のエスコートで徐々に徐々に会場に歩み寄る。いやぁ、凄いゴージャスな衣装。とてもここがインド最貧困州ビハールの心臓部とも言える田舎町とは思えない。(途中の街路は舗装もされてなかってけど。)
ようやく新郎新婦が着席したところで、またもや写真撮影会開始。時刻は23時15分。さすがにもう待てないと思い、何枚か新郎新婦の写真を撮った後、相原先生御夫妻とパヌさんに別れを告げ、会場を後にした。
ディーパック君、ニータさん、末長くお幸せに!!
僕は自分達の結婚式をここまでゴージャスにはやらなかった。家族や親戚は呼んだが、友人知人は呼ばず、ましてや妻の実家の隣組の方々はお招きしたが僕の方はそれもやらなかった。日本の結婚式はどんどんシンプルになってきていると思うけど、インドの結婚式は家と家の関係構築であり、しかも地域の住民の多くの人々から祝福も受ける。ちょっと前まで日本にもあったと思うが、今は見なくなったような気がする。
それにしても、新郎新婦は両名ともデリー郊外のノイダに住んでいるのに、なんで式はビハールなのという疑問は当然湧く。新婚生活もデリーでスタートだからだ。それでも2人の親ともここビハール州ムザファルプール出身だということで、式はここでやって地元の人々にお披露目するのだという。普段は遠く離れてデリーに住んでいても、非常に強固な地縁関係を感じる。
さて、こうして僕は23時20分過ぎにようやく会場を後にした。後はパトナまで街道一直線、交通量も減ってぶっ飛ばせば1時間30分ぐらいで着くかなと思っていたが―――考えが甘かった。
先述した片側一車線交互通行の例の橋でパトナ方面行きの車が完全ストップ。なんと1時間近く動かなかった。さらには深夜にも関わらず夜行列車の踏切通過待ちを2回も経験、こちらの踏切はいったん下りると開くまでが長い。そんなこんなでパトナのホテルに戻ったのは午前2時過ぎだった。しかも、ホテルの受付にはスタッフがおらず、少し待ったがもう駄目だと受付フロント側に入り込んで勝手に部屋の鍵を取り出した。午前3時過ぎにようやく就寝―――しかし、話しはそれだけでは済まなかった。
翌日(7日)はインド下院総選挙4回目の投票日。ビハール州でも、ガンジス河以南の各県では投票日を迎えた。州都パトナも同様。そこで、群衆の暴動を恐れた市警察当局は市内の車両交通を午前7時以降完全閉鎖すると6日夕方に発表した。ビハール州南部は、これまでの投票でもちょっと荒れたのだ。
朝9時過ぎのフライトだから僕は7時半にホテルを出れば十分間に合うと思っていたが、念のために朝5時起きして身支度を整え、6時にフロントに電話を入れたところ、「今すぐチェックアウトして空港に向かえ」と言われた。慌ててそうした。チェックアウトを済ませていると、同じフライトに搭乗予定の客がもう1人いるのでちょっと待っててくれと言われた。
その女性が優雅にロビーに現れたのは6時30分を回っていた。悪びれる様子もなく。全くインド人の典型だ。「急げ」と言われて慌てても損するのは外国人だけだ(苦笑)。
インドにて田舎の結婚式に呼ばれた時の注意事項
◆できればその地で1泊する計画を立てよう。結婚式はすぐには始まらないので。
◆宿泊できる施設がどこにあるかわからぬ場合は、主催者に電話して頼もう。
◆プログラム通りには式は進行しないから遅れて行っても可。
日本なら3日で済む故障品の修理が、インドでは3週間かかるとか。
日本人の偏見・迷信でしょうか?
by Hirosuke (2009-05-11 22:21)
☆Hirosukeさん、コメント&ナイスありがとうございます☆
>日本なら3日で済む故障品の修理が、インドでは3週間かかるとか。
う~ん、当っているような当っていないような・・・
故障の修理は、早ければ半日でやってくれたケースもあるからです。
修理自体のスピードは速いと思うのですが、問題は修理にすぐに来てくれるかどうかでしょう。
「明日行くから」という言葉に何度肩透かしを食ったことか…。
しかも、事前連絡も入れずに勝手にアポをすっぽかすこともありますし。
とにかく、約束通りに修理に来させるというところが大変なのです。
逆に、そこが非常にスピーディーだと当然客受けは良いです。
by Sanchai (2009-05-12 21:09)