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那須皓という偉人 [インド]

今週はビハール州に行ってきたという話を何度か紹介させていただいているが、結婚式だけではなく、実はもう1ヵ所訪問してきたところがある。州都パトナからガンジス河沿いに西に50kmほど行ったところにあるアラー(Ara/Arrah)という町だ。この町には今から40年以上前に日本人の農業専門家が駐在し、日本式農業のデモンストレーションを行なったという歴史がある。この「模範農場(デモ・ファーム)」を舞台とした日印間協力は1962年に調印された協定に基づいて3年間行なわれた後、2年間の延長を経て「日印農業普及センター」として引き継がれ、1975年まで続けられた。アラーはこの普及センターの1つで、インド国内には同じような日印農業普及センターが8カ所あるが、60年代前半から日本人専門家が入っていた農場は、ここアラーとグジャラート州ヴィヤラだけだ。

アラーの普及センターは、今は改組されてボジプール県のみを統括する農業科学センター(Krishi Vigyan Kendra、KVK)となっている。地域の農業の生産性向上に繋がる様々な農業実証試験を行ない、これを地域農民や農業普及員に研修を通じて普及していくのがKVKの役割だが、アラーのKVKについては今でも「ジャパニ・ファーム(日本農場)」と地域住民からは呼ばれており、パトナから乗ったレンタカーの運転手も、「ジャパニ・ファーム」と言えばあそこだなというのがちゃんと知っていた。JICAが作った当時の評価レポートを読むと、アラーセンターはこの地域に新たに持ち込んだ稲の新品種で、県内の作付面積の50%を超えるところまで普及させたということだからそれなりの影響はあったのだろう。今やボジプール県はビハール州のコメ生産の首都(Rice Capital)と呼ばれている。

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《アラーKVKの専門家の皆さん。州農業の中心地を預かる身として自信タップリ》

今でも農業普及はKVKの業務の大きな柱であり、単に農業技術だけではなく、農村経営を包括的にカバーする様々な研修が行われている。女性を対象とした栄養・家庭料理、美容といった研修もあれば、マイクロクレジットを利用した非農業部門での収入向上事業の技術訓練もある。また、単に研修機会を提供するだけではなく、研修受講した農民に学びの定着を促すアフターケアもちゃんと行なわれている。多くの農民は肥料会社から無償供与を受けたSIMカード付き携帯電話を持っており、畑で何か相談したいことがあるとその場からKVKの専門家に電話相談してくる。アラーKVKにはなかったが、全国各地にあるKVKの中には情報端末を置いてキオスクをやっているところもある。

KVKは農家と接するインド政府のフロントラインなので、現場での農民の実践を見るには丁度よい場でもあると思う。たった1日の訪問ではそうした研修現場まで見せてもらうというわけにはいかなかったのが残念だ。でも、今後も地方に行く機会があればその地域のKVKを訪問してみたいなと思っている。

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NasuShiroshi.jpgさて、本日の話題はこのアラーKVK訪問の話ではない。1960年代前半の国際協力創成期に何故ここまで大規模な日印間協力が行なわれたのかという経緯の部分にスポットを当てたいと思う。1960年代といえば日本にとっても高度経済成長期であり、大都市に出ていけば雇用機会はかなりあったと思う。それなのにわざわざインドに来て、しかも最も開発の遅れていたビハール州のアラー農場に来られた日本人農業技術者がいたというのはかなりの驚きだ。ビハール州は今でもインドの最貧困州の1つであり、体力も柔軟性もある今の日本人の若者が入るのにもかなりの躊躇があるだろう厳しい生活環境だと思う。それが40年以上前に家族連れで来られて彼の地に2年以上滞在された方々である。それだけでも敬服に値する。

ではこうした日印間の政府間協力がその当時なぜ実現したのか。そこには、1957年から1961年まで在印日本大使を務められた那須皓(なすしろし)博士の強力なリーダーシップがあったようだ。那須博士のプロフィールをWikipediaから引用する。
 1911年に東京帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。1937年には石黒や加藤完治・橋本伝左衛門(京都帝大教授)らとともに「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する意見書」を政府諸官庁に提出、国内農業問題解決のための満蒙開拓移民の推進役となった。
 戦後、一時公職追放となるが、後に復帰すると吉田茂元首相の要請を受けて、1957年駐インド兼ネパール大使となり、農業を中心とした交流強化に努める。インドでライ病の深刻さを目の当たりにして帰国後に「アジア救ライ協会」を組織して初代理事長となった。1963年に国連食糧農業機関の総会議長に就任するなど、日本と海外との交流に尽くした事が評価されて1965年に勲二等に属する勲章である旭日重光章を授与された(勲二等瑞宝章はそれより以前に受章済)。

那須博士は戦後、戦地から引き揚げてきた農村出身の兵士が、郷土に戻って以前と同じような低生産性の農業をそのまま再開していたら日本の農村は変われないという危機感を持ち、他国の農村青年と交流する機会を提供することで新たな知見とアイデアを得られるのではないかと考え、日本の農村青年を米国カリフォルニア州に派遣する交流事業を主宰されたという。そこで得た経験を今度は途上国の農民との交流でも生かそうと考えられていたようだ。この当時からナレッジ・マネジメントの発想を持っておられたというのが驚きだ。

そしてそこに駐印日本大使というオファーが来た。

一方で、インドでは1950年代にはビハール州ラージギルに日本人青年数名が駐留して稲作農業を始めていた。このラージギルの青年達の多くはその後大使館の支援を受けてウッタル・プラデシュ州サハランプールで日本式農業の展示農場を運営した。ここでの農業は「日本方式」と呼ばれ、比較的小規模な田圃を想定して条植えを用いたものだったらしい。当時の周辺地域の平均収穫高の4倍という高い収穫高を上げる農場だったという。こうしてサハランプール農場の収穫が好成績を上げるにつれてインド政府もこれに注目するようになっていった。こうした背景があって、那須大使がネルー首相と進めた日印農業協力は、サハランプール農場での日本の経験をインド国内各地に波及させるという構想だった。従って、各デモファームのチーフアドバイザーとなる日本人長期専門家には、サハランプール農場での活動経験を持つ方が配置された。

そしてもう1つの那須大使の功績。それは、1月に僕が訪れたアグラのJALMAセンター創設にある。先ほどのWikipediaからの引用にも書かれていたが、那須大使がインドでご覧になったハンセン病患者の窮状が1962年のアジア救らい協会の設置に繋がり、同協会の初代会長として、那須大使はインド政府との間でJALMAセンター設立に係る協定締結も主導されたようである。1963年の協定締結後、実際のセンター設立は1967年となり、ここにも日本人研究者、宮崎博士が派遣されている。センターをアグラに誘致する件はネルー首相が決断して地元への説得を行なったようだが、そうしたことが可能だったのも、那須大使とネルー首相の強い信頼関係があったからだろう。
*JALMAセンター訪問の記事はこちらから。
 http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2009-01-23

こうした功績が国際的にも認められ、那須博士は1967年にマグサイサイ賞を受賞した。日本人としては3人目、平和・国際理解部門では日本人初の受賞である。インドの開発問題に取り組んだ功績も認められてのマグサイサイ賞受賞だけに、僕達はちゃんと覚えておく必要があるだろう。
*マグサイサイ賞受賞した日本人についての記事はこちらから。
 http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2008-08-02-1

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yukikaze

こんな偉大な人がいたのですね。恥ずかしながら知りませんでした。たいへん勉強になりました。
by yukikaze (2009-05-10 21:20) 

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