『「インクルーシブデザイン」という発想』再読 [仕事の小ネタ]
「インクルーシブデザイン」という発想 排除しないプロセスのデザイン
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2014/06/26
- メディア: 単行本
【MT市立図書館】
2022年10月に一度読んでブログでもご紹介もしている本なのだが、少しまとめてインクルーシブデザインを扱った書籍を読みたいと思い立ち、手はじめに市立図書館で借りて読むことにした。
前回「ハードカバーでも電子書籍でもいいので原書でも1冊手元に置きたい」と感想で述べているのだが、読み直してみて改めて同じ感想を抱いた。中古でもかなり高価で、そんなに簡単に手に入る本ではないので、迷った時にまた図書館で借りて読むしかない。
前回(2022年10月)と今回とでは、自助具のデザインというところでの自分の経験値がちょっと上がっており、またデザイナーと医療従事者(介護従事者も含めて)との間での緊張関係というのも目の当たりにした。1年数カ月の間に起こったこと、見てきたこと、そして実践したことが、本書を読み返す時にも新たな視点を用意してくれていて、読みながら腑に落ちるところが多かっただけでなく、前回読んで響いたところとは違う箇所の記述に共感を覚えたというのも多かった。
面白いことに、前回のブログでの紹介記事でも何カ所かの引用をそのまま掲載していたのだが、今回の再読で付箋を付けた箇所が、1ヵ所を除いてことごとく前回と重複していなかった。前回の記事でもしかなり本文に踏み込んで紹介している場合は、再読時の紹介記事ではそれほど詳しく記事を書いたりしないことが多いのだが、本書のついては勝手がちょっと異なる。今回自分が共感を覚えた箇所を改めてご紹介していきたい。
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こうしたコンセプト開発の初期段階には、デザイナーがいつも含まれているとは限らない。イノベーションというものが、新しい技術開発とエンジニアリングアプローチに由来すると考えられている製造業の文化において、コンセプト開発の初期段階にデザイナーがいるとは限らないのである。(p.38)
医療現場ではこれまでデザイナーは歓迎されない存在だった。エンジニアはよいが、デザイナーはだめ―――先述の調査は国民保健サービスがデザインに対してほとんど理解を示さず、これをうまく活用したり指揮したりするための戦略を持っていないことを明らかにした。(p.47)
日本ではアクセシビリティの良さは平均で醜いことを意味し、特にデザインコミュニティにおいてユニバーサルデザインはあまり良い評判を聞かなかった。デザイナーの多くはユニバーサルデザインと関わりを持つことさえ嫌ったのである。(中略)こうした「決まりだから守った」ということに一生懸命になるよりも、視覚障がい者のために美術館そのもののソフト面でのサービスをより充実させることの方がはるかに重要なのではないだろうか。(p.97)
多額の費用が義肢のカスタマイズ化にかかるという事実は、素晴らしいものが存在する一方で不名誉の印になるものも存在するという二重の文化を義肢に強いることになった。下記の写真で最初に示されるのがドーセット・オーソペディックス社のような企業で個人客のために製作された美しい義肢である。その費用は高級車の価格に匹敵する。そして次に示されるのはイギリスのナショナル・ヘルス・サービスによって提供される義肢である。これらは相対的に安価で製作され、機能的には問題はないが醜悪だ。誇らしげに見せたいものというよりも隠しておきたいと思うようなものである。(p.115)
言語的、文化的、感情的、経済的な排除の問題は常にデザイナー、サービス提供者のスタート地点にならなければいけない。その微妙で複雑な特質は従来のマーケットリサーチの手法では浮き彫りにされないのである。(p.142)
デザインのまずさがどれだけ顧客である消費者にインパクトを与えるかということにただ気づいていなかった(中略)これは驚くに値しない。マーケティング中心のデータ収集、人間工学的情報と一般的に作られた人物像では共感を得ることや好奇心をもつことは不可能であり、結果として限られた洞察しか得られないのだ。直接体験するというこの種の体験はどうすれば排除のない良いデザインができるのか、という理解の始まりになる。(p.158)
RCAで私がプログラムを開始した当初、私が言葉を交わしたデザイナーたちは敏感にこの問題を感じ取っていた。そしてそれこそが課題に取り組む最大の反発要因となったのだ。
インクルーシブデザインとは特別なニーズを抱えた人のためだけのものとみなされ、基準を満たすだけの創造性というデザイン的面白味に欠けたものと同一視された。障がいを抱えた人々とともに作業することでさえも嫌がられた。それは、間違った言葉遣いや不躾な質問、個人的な質問をしてしまうことで「うっかりと自分が気づかないうちに相手を傷つけてしまうかもしれない」という恐れによるものだった。
そうした恐れはほとんどが杞憂に過ぎないのである。私が一緒に仕事をしたほとんどの障がい者は自身の困難な体験について率直に語ってくれる。面白おかしくどうやってうまくそれと付き合っているかを語ってくれる。そして良いデザインを生み出すことに自分たちが積極的に関わり貢献できることを喜んでくれる。なぜならこうした彼らの意見が求められることがこれまでなかったからである。(p.196)
合理的でユーザー中心の理念を持つビジネスモデルは、必ずしも大企業にとって耳に心地よく響くものとは限らない。そして、いかにこの新しいデザインと生産方法がデザインから排除された人々に恩恵をもたらすかは道とされたままなのである。(中略)「その企業のCEOはプレゼンを聴き終わってこう述べました。『これは素晴らしい。しかし、君のプレゼンは私に私の供給プロセスをすべてなくしてしまえと実のところ言っているようなものなのだよ。それは解決を提案するどころか私たちにとっては脅威にほかならないのだよ』。これを聞いて私は改めていかにこの技術(注:デジタルファブリケーション)が破壊的なすごさを持つかを実感したのでした」と、ハロウニは述べている。
しかしながら、この引用にある破壊的という言葉は必ずしも否定的な意味を持つものではない。FabLabの活動はデザイナー、メーカー、ユーザー間に結ばれる新しい社会的な協定の倫理面、実践面における良い手本となった。そしてインクルーシブデザインの核となるビジョンを表現するものともなった。情報や技術、そしてデザインデータの一部までもが可能な限りオープンソースであるべきであるという考え方にもとづいている。そうすることで、限られた特権的な人だけでなく、それをもっとも必要とする人が恩恵を受けることができるのだ。
情報と技術は中立的な道具であり、応用を必要とする。もしそれらが創造的な方法で活用されたら、様々なレベルにおいて周縁化された集団にとって、より大きなインクルージョンを達成することができる。そしてそのためには全体にわたる包括的な構造や枠組みが必要となる。インクルーシブかつデザインベースに由来するプロセスがそこに伴わなければならない。そこではじめて影響力を発揮することができるのだ。ここにおいてこそ、仲介者でありクリエイティブディレクターたらんとする、デザイナーの決定的な役割が遺憾なく発揮できるのだ。(pp.254-256)
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