『本物の英語力』 [英語一期一会]
内容紹介
発音はハチャメチャと完璧の間を狙う。語彙を増やすためには、とにかく「たくさん」読む。文法がまちがっていると「教養がない」と思われる。好きなこと、関心があることで英語を学ぶ。など、話すための基本、難関の試験克服法など日本人が「英語の壁」を乗り超えるための新常識10を伝授。英語が苦手な人でも、本書を読んで「英語なんて簡単さ」と自信を持とう!
英語を勉強の対象として捉えなくなってからどれくらい経つだろうか。そもそも英語力をつけるために勉強をしてきたわけではないので、英語学習法といった類の本は、ここ20年ほど読んだことがない。当然、NHKでやってる英会話系のテレビ講座などにチャンネルを合わせたこともない。ラジオで、「石川遼クンも愛用」と盛んに宣伝している「スピードラーニング」も、何だか胡散臭いものを感じていた。それなのに何故今頃こんな本を読んだのかというと、それが鳥飼玖美子先生の著書だったからだ。
昔、『百万人の英語』時代の鳥飼先生や國広正雄先生に憧れて、上智大学を目指した人間である。高校生時代の僕は、同時通訳者に憧れのようなものがあったので、『百万人の英語』で取り上げられた勉強法は、たいてい実践していた。國広先生が当時提唱されていた「只管朗読」は、特に実践していた。鳥飼先生はイスパニア語学科なのになんで英語がそんなにすごいのかとか、いろいろ考えたが、なんとか上智大学にすべり込んで自分も英語の勉強を専門的に始めてみると、周囲の帰国子女や高校時代に留学経験したクラスメートの次元の高さにカルチャーショックを受けた。
田舎でラジオ講座聴きながら自分なりに英語を勉強して都会に出てみると、自分のレベルなんてそんなものかと思った。少なくとも、僕の「カルチャーショック」というのはそういうものだった。同時通訳への憧れなどは、即座に吹っ飛んだ。鳥飼先生の授業も存在していたと記憶しているが、自分の力では、同時通訳のレベルには辿りつけないと挫折し、授業を取るには至らなかった。
それでも、大学生時代にペーパーバックを読めるようになったのは嬉しかった。1983年、最初にコナン・ドイルの『恐怖の谷』を読了した時の達成感は今でもよく覚えている。小中高生時代に日本語で読んであらすじを知っていたので、この本を選んだ。次に読んだのはイアン・フレミングの『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』だった。映画を見ていたので挑戦してみたら、映画と原作がちょっと違うなという印象を受けた。そして、事前にあらすじを承知してないのに小説を読み始めたのは、1985年、ケン・フォレットのスパイ小説『ぺトルブルグから来た男』や『鷲の翼に乗って』じゃなかったかな。ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズはもうちょっと後だったかと。
今でも英語で書かれた本は、日本語で書かれた本に比べて読むスピードが遅いというのは感じる。辞書を引いたりしてつまずいていたら仕方ないというところはあって、鳥飼先生はわからない単語があっても読み飛ばせというようなことを主張されているが、それでもあまりにも頻出してその単語がわからないと困るなと思ったらやっぱり辞書は引いた。最近はもっと便利になって、キンドルならわからない単語を長押しすると意味がポップアップで出てくる。これは辞書をひく手間が省けるので非常に助かる。なんとなく文の前後関係で、「こんな意味かな」と想像しながら単語を長押しするが、そうするとだいたい想像通りの意味だったりする。それで自分がその表現を使えるようになるかというと、多分別問題だろう。
本書で書かれているいろいろな学習法は、それが「英語学習法」だと意識してなかったけど、社会人になってからは実践していたことも多かった。仕事で英語を使うようになってからは、「学習」という意識はなくなり、必要に駆られてやっているんだと捉えている。鳥飼先生が書かれている「英文メール」との格闘等は、もう2000年頃から取り組んでいた。メールというものがビジネスツールとして出てきて以来、常に感じているのは、日本語のメールではくどい文章を長々と書く人が多いということだ。英語のメールは単刀直入で、知らせたいメッセージは1つだけ、だからパッと書いて返信もできる。
今でいえば、僕が地元メディアの報道を要約して解説付きでブログに紹介するような取組み等は、元々はそういう「縛り」でも作っておかないと庶民の話題に付いていけなかったり、会う人との会話のネタがなかったりするので、英語の勉強というよりはネタの仕込みぐらいのつもりでやっている。アウトプットの場を作れば、インプットも一生懸命やるだろうと…。
また、今の僕が意外と重要視しているのは英作文で、拙い英語であっても論文書こうとか、新聞に投稿しようとか、歯を食いしばってやっている。自分の考えを世に問うため。早めに文章に落してどこかで発表していれば、後で誰かがそれに近いことを言いだしたりやりだしたりした時にも、「そのアイデアのオリジナルは私です」と主張できる。そして、そういう実績をためておけば、自分の履歴書にも書き足せて就活にも有利になる―――などと野望だけは持っている。お陰で辞書の例文をよく確認するようにはなった。その単語の用法は自分の作文の文脈に合っているのかとか。
さて、自分の英語遍歴のような話ばかりになってしまったが、こうした英語遍歴を歩んできた人間が本書を読むと、自分の歩みが誤りでもなさそうだという振り返りにはなった。中には、僕が英語を「勉強」していた高校や大学時代にも、英語普及の第一人者の方々がよく例えで使っておられたようなちょっと古い表現もあって苦笑もしたが、全体的には「そうだよな」と思うところが多かった。
そして、現在はあまり取り組んでないけど、ちょっと今の僕自身の問題意識からすると、ヒントとなりそうなことも2つほどあった。昔やってたのに今はあまり重要視してなかったことが、ヒントになりそうだ。
1つは「舌ならし」。今でも時々あるのだが、特に疲れてくると英語が口から出にくくなる。例えば1週間ぐらいの出張に出ると、最初の2、3日は滑舌も良く、わりとスラスラ英語が出てくる。それが4日目以降になると、滑舌が急に悪くなり、支離滅裂な英文になってしまう。つい最近もあったことで、そういう日にたまたま会った人々は、僕が英語出来ないと思われたに違いない。中だるみというのもあったかもしれない。毎日毎日が勝負のつもりで、その日会う人に何をどう説明して行ったらいいかの組立てを考える、準備をしっかりやっておくのは当然必要だ。それでも会話での滑舌は別の問題だ。本書を読むと、鳥飼先生は今でも毎日舌ならしをしておられると書かれている。
そうか、毎朝音読を15分とか30分とか欠かさずやってたら、状況は違ってくるかもしれない。そう考えて、手元にあった英語の小説を、毎朝音読の素材として使うようにし始めた。
もう1つは、別の外国語の勉強への応用。50代半ばにして、別の外国語(要するにゾンカ語)を勉強せねばと思い立った。久々に外国語を「学習」の対象として捉える機会に直面しており、そのために、英語学習の初心者の頃の自分が何をどう取り組んでたのだろうかと振り返ってみる良い機会を本書は与えてくれた。
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