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『新教養主義宣言』 [読書日記]

新教養主義宣言 (河出文庫)

新教養主義宣言 (河出文庫)

  • 作者: 山形 浩生
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
「日本的四畳半ウサギ小屋的せまさ」に行き詰まっている現実も、ちょっと物の見方を変えれば可能性に満ちている。文化、経済、情報、社会、あらゆる分野をまたにかけて、でかい態度にリリシズムをひそませた明晰な日本語で、いま必要な新たなる“教養”を読者の脳裏にたたき込む。21世紀の日本人必読の書。

なんでこの本を購入することになったのか、2年以上前の話なので今となっては思い出せない。著者が翻訳で関わった途上国開発関係の専門書は何冊か読んでお世話になっていた。わかりやすい翻訳をされる方だと好感を持っていた。また、途上国開発に限らずで、道を歩けば「山形浩生」に当たるというぐらい、自分の行く先々でその名を見かけたりもした。僕は途上国開発の文脈から山形浩生という名を知ったので、その山形浩生が秋葉原に出入りしてメイカームーブメントにも関わっていると聞き、にわかに同一人物だとは信じられなかった。いったいどういう人物なのだろうかと知りたくて、文庫版を買ってみたというところだろう。

話は脱線するが、「教養」という言葉の意味について、僕が考えるようになってきたのはわりと最近のことだ。読書メーターの読了書籍が1,500冊以上積み上がってくると、僕も捨てたもんじゃないなと自己肯定感も多少芽生えてきたし、読んだ本の中から話のネタを繰り出し、あれとこれを組み合わせたら面白いかもと思えるようになってきた。哲学書や啓蒙書の類、アダム・スミスやマルクス、ケインズの類を読んできたわけじゃないから、その底の浅さは否定はしないけど、ジャンルのバラエティがその底の浅さを多少は補って自分の武器にはなってきているのかなと思い始めてはいる。著者から言わせると、そんなゴミのような本ばかり沢山読んだって真の教養は身に付かないよと馬鹿にされそうだが、僕は僕なりにやっているということで!それに、実際役に立った局面もあったわけだし。

でも、もし自分が高校3年生の頃にまで立ち戻り、再び青春時代を過ごせるなら、そういう本をちゃんと読みたかったとは思う。今ちょうど僕の娘は高3で、大学受験も辛うじて私立文系で1校だけ拾ってくれたところがあったので、今は4月の入学までのモラトリアム、楽しい時間を過ごしている頃だと思う。僕にも同じような時間を過ごしたことがあったが、その頃高校の担任の先生から、「こんな時じゃないと読めないから、今のうちにトルストイやドストエフスキーを読んでおけ」と言われた。途中吉川英治『宮本武蔵』にハマってしまったので、結局高校卒業までに読めたのは『罪と罰』ぐらいだった。

残りの高校生活という短い時間からもう少し幅を広げて、大学入学後2年ぐらいは一般教養科目というのを選択・受講させられる。でも、僕は自分が学生だった当時、一般教養と言えば居眠りするぐらいに退屈な時間でしかなく、ろくな学習姿勢をとってなかった。今思えば一般教養科目というのは、元々問題意識を持って何らか学びの取組みを始めている学生が、自分がわからないことを講師にぶつけて議論を引き出す、双方学びの場であるべきだったのではないかと考えるが、高校時代にそういう実践をしてなかった者が、いきなり大学の一般教養科目でそれができるかといえば、否と言わざるを得ない。

私大理系で1年目を終えた息子と、これから私大文系で1年目を迎える娘には、こうしたオヤジの教訓を生かして、オヤジよりもまっとうな教養を早くから身に付けられる途を見つけて欲しいし、専門課程に入る前の2年間をとにかく有意義に過ごして欲しいと願いたい。テレビから得られるような受動的な情報では表層的なものの捉え方しかできなくなると思う。知りたいことは自分から学びに行かないと得られないと思う。

本書の話に入る前に、前置きが長くなってしまったが、せっかくだから我が子には、せめて本書のプロローグぐらいは読んでみて欲しいと思う。僕が上で述べたようなことの意味が、プロローグを読めばわかると思う。

2カ所だけ引用しておく。これらは僕自身も今までの社会人生活の中で痛感させられてきた点であり、今も強く意識している点だ。

仕事でもそれ以外でも、毛唐やアジアのエリート連中を相手にしているときによく感じる「ああ、このままではこいつらには勝てない、おれ1人でサシなら余裕で勝てるけれど、日本のエリート集団vs香港やシンガポールやタイのエリート集団、という勝負になったときには、たぶんやられてしまう」というあの感触。こいつら、明らかに日本側のカウンターパートの平均よりも知的なベースが広いし水準も高いな、という感触だ。(pp.17-18)

 でも、こうして単発でいろんな要素を教え込むだけでは足りない。こんどはそれをつなげていかなくてはならない。教養ってのは、体系になって、あるいはそこまでいかなくてもある種のまとまりがあって、初めて意味を持つものだからだ。(中略)
 たぶんそこがぼくにもできるところなんだと思う。単発の話では、その分野の専門家がいてある程度きちんとした話をしてくれる。そういうのや、さらにはいろんな生活上・仕事上・あるいは単純な興味上でみんなが関心を持っている話題がブチブチとした形であちこちに散らばっている。それをうじゃうじゃとつなげていくこと。(中略)それを一通りまとめて理解することが、たぶんいまの世界のありかたを理解するうえで大事なんだってことを、ちょっとこじつけ入ってもいいから説明してみよう。(p.41)
特に前者の引用。僕は当地で駐留インド軍の司令官とひょんなことから仲良くなったが、会うたびに「日本の禅や歴史について書かれた本を読んだぞ」という話をされる。インドと言えば今でも貧しい人がたくさんいて、僕ら無垢な外国人観光客が一歩足を踏み入れれば、それこそ格好の獲物が到来したとだましにかかる奴らがいっぱいいて、気を許せない国であるが、人口13億の大国のエリートといったら、それはそれは頭が良く、教養の塊だと舌を巻く。「勝てない」という感覚は僕も持つ。著者は1対1のサシなら勝てると強弁されているが、僕はサシでも勝てない。せめて互角の闘いに持ち込みたくとも、今からでは僕には残された時間も多くはない。

だから、うちの子どもたちには今からこのことは考えておいて欲しいのです。今の日本は楽しようと思ったらいくらでも楽ができてしまう。でも、つなげるのに必要となる様々な話題へのアンテナは張り巡らせていて欲しいのです。

最後に本書にひと言。先ほども述べたように、僕の出た大学には一般教養科目というのがあったけど、何で取らなきゃいけないのか当時は理解できなかった。一方、著者の出た東大には教養学部というのがあった。僕は著者と同年齢だが、出発点で既に差があったということなのだろうか。それとも、必死で受験勉強やって地方から東京に出てきた僕のような人間と、麻布高校出て東大に進めるような環境にあった著者との間には、中学高校時代から違いがあったのだろうか。多分僕がいくら頑張っても、著者の言う教養のレベルにはどうしても追いつけないだろう。悔しいけど。東大出身者が「自分は違う」的なトーンで書かれた文章を読むのは、荒木徹也・井上真編『フィールドワークからの国際協力』に続き、短期間の間に二度目となるが、毎回毎回、「お前はわかってない」と言われているようで、なんだかすごく傷つく(笑)。

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