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『鳥葬の国』 [ネパール]

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鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (1960年) (カッパ・ブックス)

  • 作者: 川喜田 二郎
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 1960
  • メディア: -
内容(「BOOK」データベースより)
1958年、「西北ネパール学術探検隊」が行なったヒマラヤ最奥地の調査は、世界ではじめて奇習“鳥葬”をとらえるなど、日本の野外研究学派の基礎を築く大きな成果をあげた。本書は、厳しい自然とともに生きるチベット人の生活をつぶさに描き出すと同時に、探検隊内の人間関係を赤裸に描いて、「探検隊の生態」をも公開した興味深い記録である。
前回ご紹介した『ブータン神秘の王国』同様、『鳥葬の国』も1997年以来、15年振りの再読である。前回は当時駐在していたカトマンズ・タメル地区の古本屋で見つけた。1958年に組織された西北ネパール学術探検隊の民族学調査を一般の読者にもわかりやすい形で示す紀行文となっている。1ドルが360円もして、大阪万博で「世界」の国々を強く意識するようになるよりもずっと以前、僕らが生まれる前に、日本人どころか外国人もほとんど足を踏み入れたことがなかったヒマラヤの辺境地を探検したレポートには心が躍ったもので、ムスタンよりもずっと奥の、トルボ(「ドルポ」ともいう)に、機会があったら行ってみたいと思ったものだった。

特別パーミットが必要とはいえ、今ではネパールのツアー会社がトレッキングツアーの募集すらしているトルボ地方への旅は、これまでに参加した日本人旅行者もかなりの数にのぼり、トルボ地方のカラー写真を沢山掲載したブログも結構ある。川喜田探検隊が撮影許可を取るのに苦労したチベット人の「鳥葬」の光景も、ハゲタカの群れが死体をついばんでいるシーンを至近距離からアップで撮ってブログに掲載している人すらいる。50年も経過すれば受け入れるチベット人側もかなりすれてきて、そういう撮影許可も容易に得られる時代になってきたのかもしれない。そういう世界に初めて足を踏み入れた日本人たちの奮闘があったことを、僕達も知っておく必要がある。

今回の再読の第一の目的は、ダショー・ニシオカ――西岡京治氏の足跡を辿ることにある。

西北ネパール学術探検隊の中で、西岡は隊のために用意していった様々な医薬品を使い、現地で医者がわりのことをした。このため、民族調査の対象となったツァルカ村でも、チベット語で医者を指す「アムジー」という呼称で、村の人々から親しまれてきた。

 西岡アムジーの名声が日ましに高くなったのは、治療の効果とともに、また彼の温かい無邪気な人柄によるところも絶大である。が、彼はそのうえに、ツァルカをはじめ、どの村へ行っても、遊びにゆく「ゆきつけ」の家を作る名人である。
 まず頼まれて診療に行くと、お茶をよばれ、世間話をする。診療がすむと、またチュルビー(チーズ)やタラ(脱脂粉乳)のもてなしをうけながら、いろりを囲んでのんびりとむだ話をする。このときに、彼は民族研究の参考となるようなことを、ごく自然に見たり聞いたりする。けっして、あわてて調査に取り組まない。だからその彼が「民族斑の人たちは、もっとしげしげと村人の家を訪ねて、よう遊んでくる方がいい。あわてて調査しすぎるんじゃないか。」と批判をしたのは、まさに痛切な忠告だった。
 こういうふうなので、彼の観察には他人のおよばない閃きのある資料が少なくない。たとえば、彼らの家で、早朝にバターやチーズ作りが行なわれるが、このとき主婦はそのための木の杓子を他人にさわられたり床に置かれたりすることをひじょうにきらうのである。
 西岡ドクターは、このタブーが、どうやら、製造工程で雑菌がはいることを防ぐために、経験的に生じた慣習だと看破した。(pp.116-117)

 村(註:ビジェール村)に着いたすぐその晩のこと。彼(西岡)は1人でチョウキャップのとまっている姉さんの家を訪れた。「アジョー(兄さんよ)。」と、そとから呼びかけると、「おう。」と、返事があって、戸口があいた。家の前の追い込み場の暗やみの中には、ヤクの群れがギョロリと目玉を光らせていた。チョウキャップが親切にもヤクの角にかけられないように、案内してくれたので、彼はヤクの群れをかきわけて中にはいった。
 それから滑りやすい丸太のクリヌキ梯子を上がると、三階の居間には、いろりの火が、あかあかともえている。居候になった、チョウキャップとギャルツェン少年は、炉端で、靴縫いなどをしており、そのかたわらには、チョウキャップの姉さんと、その婿さんがいた。妻の方がだいぶ年長で、姉さん女房というところである。
 やがて晩飯になり、モモ(肉饅頭)が出る。塩味だけであるが、彼らにとってはご馳走であって、それを手づかみで食べるのだ。酒が出ると、すぐにギャルツェンとチョウキャップは赤くなった。すると2人はダムニェン(琵琶)を手にとって、歌いつつ踊った。
 西岡アムジーは、つぎの晩も、またひとりで出かけた。家の中では、前の晩に煮ていた米や大麦のうえに、いまや酵母をふって濁酒をかもすところであった。そこへ彼がはいっていったのである。すると、どうであろう。姉さん女房は、いろりから炭火をつまみ、これを米や麦の山の中にうずめ、それからその炭をふたたびつまみ出して、「テイロ(出てゆけ)!」と叫んで、階下に捨てたものである。
 外来者がいては、濁酒の醸造が汚されるので、こうやって清めたのだった。そのくせ、彼女は西岡君をきらったのではない。彼が寒暖計をとりだして、発酵中の米麦の山の温度をはかろうとすると、こころよくそれを許してくれたのである。
 炉端に西岡君が陣取っていると、彼女らは、羊の生肉をプッツリ切りとって、「食べろ。」と、すすめてくれるのだった。どうやって食べようと、彼が一瞬とまどうと、いろりの中のもえさしのヤクの糞の上に置けと指さした。彼が肉片を焼きはじめると、羊肉からジリジリと湧き出した油は、ヤクの糞とまじり、緑色になった。彼はこれをふき取って食べた。
「もう、このきたなさに慣れたら、あとはどんなことでも、平気になってしまったよ。」
 さすがの西岡アムジーも、よくそういう感懐をもらしたものである。(pp.169-170)

本書の著者の川喜田二郎先生は、各隊員がこうした経験や気付きを片っぱしから「フィールドノート」に書き込んでいたと述べている。そして、西岡の発見として特に有名な、野生の大麦の発見も、ツァルカ村から、カンジロバ・ヒマール登攀のためにさらに西に向かう途中、村の外れの畑の中で見つけている。

15年前に読んで奥地探検ものとしてワクワクした最初の読書から、その後民族学的調査について多少なりとも理解した上で読み直した今回は、フィールドワークが何たるか、住民との接し方など、有用な情報が多く掲載されていて、とても味わい深い読書となった。そして、毎日ちゃんとフィールドノートを付けるという習慣、これがあってこそ、長期間にわたる民族学的調査の記憶は、文字情報として形式知化されていくというものであろう。

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