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『お産の歴史』 [読書日記]

お産の歴史 ―縄文時代から現代まで (集英社新書)

お産の歴史 ―縄文時代から現代まで (集英社新書)

  • 作者: 杉立 義一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2002/04/17
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
出産の歴史は人類の歴史とともにある。わが国では縄文時代中期の出産の様子を示すと思われる土偶も、いくつか発掘されている。そうした太古の時代から21世紀を迎えた今日まで、出産を取り巻く状況は大きく変化してきた。7世紀から8世紀にかけ中国の医学、医術がもたらされ、17世紀、西洋医学が取り入れられ、独自の出産文化を生み出してきたのだ。本書は医学史的見地から、さまざまな文献史料を参照し、日本人の出産の歴史を辿る。
ここ数カ月の僕の読んだ本のラインナップからすると何の脈絡もない1冊を突然登場させる。実は、本書は2年ほど前から読もう読もうと思っていて、帰国してすぐにアマゾンで注文していたのだが、実際に手元に届いてから読み始めるまでにあまりにも長い時間がかかり、積読状態が半年以上に及んだ。その間日本の医療制度について何か改めて考えてみるような機会もあまりなく、きっかけがつかめずにいたが、連休を前にして、積読状態だった僕の蔵書を少しばかり整理してしまいたいと思った次第である。中にはB6や四六判のハードカバーもあるのだが、取りあえずは新書やページ数が少なめの単行本から片付けるようにしたいと思っている。

今ちょうど我が家の子供達が日本の歴史を学校や塾で勉強しているが、その学習内容を眺めながらつくづく思うのは、学校教育で勉強する歴史というのは基本的には政治史なのだということである。民衆の歴史、社会の歴史、女性の歴史、農業の歴史などなどといった主題別で日本の歴史を見ていったら、もっともっと歴史は味わい深いものになると思う。ここ半年、今僕らが普通に食べている農産物がいつ頃から日本の庶民が食べられるようになってきたのかを知る機会があったが、同じような切り口で別ので主題で歴史を振り返ってみたら、もっといろいろ知らなかったことが見えてくる。政治史を基本的には習っている我が家の子供達の学習に、外野のオヤジが多少の付加価値をつけられるとしたら、こういう一見すると何の役にも立たないことを知ったかぶりして語るところにあるように思う。

例えば、平安時代の貴族の女性は、どれもこれもふくよかで目は細めで、そういうのが美人だと考えられていたのだろうと思っていた。でも、貴族女性は40kgもある十二単と床まで届くような垂髪のために動きがまったくままならず、運動不足で太り気味だったのではないかと考えると、要はそういう女性が多かったというだけなのではないかという気もするのである。

そういうことを改めて気付かせてくれたのが本書である。平安時代の貴族女性の例でいえば、歴史的にみても妊産婦の死亡が非常に多かったらしい。妊産婦死亡例が出産の17%にも達していたというが、どうしてそうなったのかというと、早産、血族結婚といった要因の他に、運動不足、ただ夫の来宅を待つだけの精神的ストレス、妊娠中の多くの禁じ事など、お産に不適当な環境が何重にも重なっていたことが大きいのではないかと著者は指摘している。(p.66)

今では、施設分娩が当たり前になっているが、少し前はよくて助産所、さらに少し前には自宅分娩で産婆さんがとりあげていた。それが今や急に帝王切開が必要になる例や、新生児蘇生が必要になる例が多くなってきている。母体死亡や新生児死亡が多かった当時と比べると、今の産科医療の技術は本当に向上したが、高齢出産や人工授精による妊娠出産例が増えて来ている現状は、出産自体がかなり難しくなってきているという状況も示しており、産科医にかかってくるプレッシャーもかなり大きいものになってきているように思う。分娩が上手くいって、母子ともに健康であることが当たり前だと思っている人が増えてきている中で、失敗でもすれば医療事故として訴えられるリスクすら負わされている。

今一度、出産というのはリスクを伴うものなのだということを考えてみる必要がある。本書を読み、特に江戸時代以降、母子ともに健康(母児双全)でお産を終えるのがどれだけ難しいことだったのかを改めて理解し、産む側の産婦もその家族も、産科医や看護師、助産師に協力する姿勢をとらないといけないと思う。

「母児双全」の実現がどれだけ大変なのかというのは、本書でお産の歴史を振り返ればよくわかる。著者によれば、こうした取組みでの金字塔とも呼べるのは、次の3つの出来事だという。
1.賀川玄悦が正常胎位を発見し、さらに回生術を実施することによって、母体の生命を救うことに成功した(1750年頃)、
2.母体だけでなく胎児も心身ともに健全なうちに娩出することができないか。それをめざして水原三折が探頷器を発明し(1834年)、伊古田純道がわが国で初めて帝王切開を行なった(1852年)、
3.明治元年以来、西洋産科学を本格的に受容した結果、帝王切開の安全な実施、未熟児哺育施設の充実、助産婦教育の普及などにより、妊産婦死亡、周産期死亡が激減した(1980年頃)
 (pp.251-252)

現代産科医学では、分娩の進行中に母児のどちらかに危険が予想される場合、機を逸しず帝王切開のような適当な処置が行なわれる。なかなか胎児が出てこない時は、頭部を吸引して引っ張り出すような措置が取られる。これは『3 idiots』のようなインドの映画を見ても出産のシーンでは使われており、世界的にも標準的に行なわれている行為だろう。しかし、250年前の日本では、難産が発生してもただ加持祈祷や薬湯に頼る他に術もなく、母体はただ死を待つのみという事態に陥ることが多かった。賀川玄悦が行なった回生術というのは、母体生命の回生であり、歴史的にみても母児双全の取組みは先ずは母体生命の回生からスタートせざるを得なかった。しかし、賀川流の泣き所は胎児の命を救うことにまでは至らなかったことであり、引き続き胎児を生存中に娩出するための努力が多くの人々によって続けられる中で、賀川玄悦から80年以上経過して、胎児の顎にひもを引っかけて引っ張り出すという水原三折の探頷器が考案される。

江戸時代から妊産婦を母子ともに健康な状態で出産させるために尽力した人たちがこれだけいたことが、戦後復興期の医療の日本の産科医療の発展に繋がっていったということを、今改めて学んでみるのもいいのではないだろうか。今の日本の社会は、こうした人々の努力によってようやく当たり前にできることとなってきたと思われる出産を、さらに難しくする方向へと向っている。出産はリスクを伴うものであるということを、もう一度僕らはちゃんと理解(覚悟?)しておく必要があるだろう。

日本が凄いなと思うのは、こういう課題解決に向けた取組みが、民間レベルで、しかもこんな早くから行なわれてきたという点にある。内発的に課題解決が取り組まれるような文化社会環境が、今の途上国の多くの国々にはないところに、発展に向けたそもそもの大きな障害があるように感じるのは僕だけだろうか。
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