『定価のない本』 [読書日記]
内容(「BOOK」データベースより)【購入(キンドル)】
神田神保町―江戸時代より旗本の屋敷地としてその歴史は始まり、明治期は多くの学校がひしめく文化的な学生街に、そして大正十二年の関東大震災を契機に古書の街として発展してきたこの地は、終戦から一年が経ち復興を遂げつつあった。活気をとり戻した街の一隅で、ある日ひとりの古書店主が人知れずこの世を去る。男は崩落した古書の山に圧し潰されており、あたかも商売道具に殺されたかのような皮肉な最期を迎えた。古くから付き合いがあった男を悼み、同じく古書店主である琴岡庄治は事後処理を引き受けるが、間もなく事故現場では不可解な点が見付かる。行方を眩ました被害者の妻、注文帳に残された謎の名前―さらには彼の周囲でも奇怪な事件が起こるなか、古書店主の死をめぐる探偵行は、やがて戦後日本の闇に潜む陰謀を炙りだしていく。直木賞作家の真骨頂と言うべき長編ミステリ。
長年の親友が推していた本。本が好きな人、神田神保町にお世話になっている人にはお薦めの作品である。神田神保町がなんで本の街、古書の街になっていったのか、その歴史がわかるだけでなく、古書店に陳列されている古書に対する見方も変わるだろう。丸善の商売や人材養成のシステム、白木屋デパートの位置付け、皇居にある楠木正成像など、ところどころでトリビアもさしはさまれていて、かなり満足感の得られる内容だった。
物語自体はフィクションだけれど、ところどころで実在の有名人をストーリー展開に絡めてくる。それらが伏線としてちりばめられていて、それらもいい具合に終盤回収されていく。エンタメ小説として読む分には面白いと思う。
著者の問題意識が出ていると思われる箇所をいくつか抜粋しておく。
もしもこの古写本を、自筆本を、極彩色細密図入り完本を、ここで自分が入手しておかなかったら、信頼できるコレクターや学者や公共機関へと受け渡ししておこなかったら、
(どんなところに流出して、どんな目に遭わせられるか)
貴重書といえども、しょせん紙のたばにすぎないのだ。流出した先の女中がへっついの焚きつけにしてしまう、下男が紙屑屋へ払ってしまうというのはたとえ話でもなんでもなく、戦前から庄治のしばしば見聞きしてきた実際の例にほかならなかった。(p.146)
あたしたちはいま、ヤミ市で伏見や灘の酒を買うよりもはるかに低い価格によって、六百年前の天皇の自筆本を買うことができるのです。理由はやはり、戦前の華族や財閥家がのきなみ没落したことが大きかった。彼らの蔵書は市場にあふれ、しかし買い手はついていない。(p.169)
――日本はアメリカに負けたけれど、神保町は勝とうじゃないか。(p.277)
(神田神保町について)元々は江戸時代に旗本屋敷だったところ、明治になってから大学がいっぱいできた。大学ができると本の需要が生まれ、やがて出版や取次、それから新刊書店や古本屋が集まって来た(p.335)
(どんなところに流出して、どんな目に遭わせられるか)
貴重書といえども、しょせん紙のたばにすぎないのだ。流出した先の女中がへっついの焚きつけにしてしまう、下男が紙屑屋へ払ってしまうというのはたとえ話でもなんでもなく、戦前から庄治のしばしば見聞きしてきた実際の例にほかならなかった。(p.146)
あたしたちはいま、ヤミ市で伏見や灘の酒を買うよりもはるかに低い価格によって、六百年前の天皇の自筆本を買うことができるのです。理由はやはり、戦前の華族や財閥家がのきなみ没落したことが大きかった。彼らの蔵書は市場にあふれ、しかし買い手はついていない。(p.169)
――日本はアメリカに負けたけれど、神保町は勝とうじゃないか。(p.277)
(神田神保町について)元々は江戸時代に旗本屋敷だったところ、明治になってから大学がいっぱいできた。大学ができると本の需要が生まれ、やがて出版や取次、それから新刊書店や古本屋が集まって来た(p.335)
ただ、腑に落ちなかった点もある。
その1つはGHQの「バキュームクリーナー計画」。米国ってそこまで日本の歴史を否定しようと当時していたのだろうかという点である。日本と戦争するにあたり、米国は相当日本を研究したことは間違いなく、さらにコロンビア大学のように、今にも続くような日本研究の拠点を持っていた。それが、何百年も前に書かれた史料をそうそう雑に扱うような駐留軍の暴挙を本当に許していたのか、やは疑問符は付く。実際にこうして日本人のコレクターの手を離れて海外に流出した史料はあった筈で、GHQが買い取った史料を全部神田神保町の古書店連合に売り戻すというオチにしなくてもよかったのではないかという気はした(ネタバレになってしまってスミマセン)。
もう1つは、腑に落ちないというよりも、この先どうなっていくのだろうかという不安である。今の学生が本を読まなくなったというのもさることながら、大学教育自体が人文学を軽視して実学重視の方向に向かっていることが、日本の歴史を学ぶことの価値を相対的に引き下げているような気がする。わからないことはネットで調べるし、グループワークで課題解決型学習を進めるといっても、古典にあたってじっくり調べるということはむしろされなくなってきているように思える。
そんな状況の中で、財政が危機的状況になれば公共機関が歴史的価値の高い史料の保管に充てられる予算も削られるかもしれないし、大学研究機関も然り、民間のコレクターの余力もだんだん減って来ると、いったいこれらの史料はどこへと向かうのだろうか―――そんな不安が湧いてきた。
自分自身も「断捨離」を考える年齢にさしかかってきているし、昨年父が亡くなって遺品を整理した際も、かなり価値のありそうなものも、それを吟味している時間などなくドカドカと捨ててリサイクルセンターに持ち込んだ。今思えば、山岡荘八の『徳川家康』なんて、全巻揃っていた筈で、セットなら多少の価値もあった筈だけれど、それでも愚息の僕らは実家で過ごせる時間が限られていて、ブルドーザーのように一気に片付ける粗っぽい行動を取ってしまった。
そういうのが当たり前になっていくと、先代が大事にしていたものですら、この先どう扱われるのかわからない。そんな不安を覚えた読後であった。
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