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ボーマン先生との思い出 [備忘録]

11月末、京都の大学での講義の前日に岐阜の実家に立ち寄った際、父から中日新聞西濃版の切り抜きを受け取った。弟がとっておいてくれたもので、岐阜県垂井町の知的障害者支援施設「あゆみの家」の創立40周年にちなんだ3回シリーズの記事「約束-あゆみの家とともに」(秋田佐和子記者)である。導入部分を引用する。
垂井町の知的障害者支援施設「あゆみの家」が、今年40周年を迎えた。創設者は、米国カンザス州グッドランド出身の故ジョン・ボーマンさん(2004年、79歳で死去)。終戦まもないころ、仙台で日本の子どもたちと交わした約束を守るため、宣教師として再び来日。弱い立場の人たちを常に気に掛け、私財を投じて西濃で初めての障害者支援施設を造った。同郷の妻ベルニダさん(82歳)は夫を支え、その死後もリサイクルショップの売り上げを寄付して、施設を支えた。夫妻が来て58年。長い歩みをたどる。

この導入からもわかる通り、この記事はボーマン夫妻の歩みを紹介したものである。だが、本日この話題を取り上げるのは、残念ながら僕の「あゆみの家」やジョン・ボーマン宣教師との関係性を紹介したかったからではない。「㊥出会い」にベルニダ夫人が「英語講師の収入」を全てあゆみの家に寄付されていたとあるが、その夫人-僕らは「ボーマン先生」と呼んでいた-に英語を教わっていた1人が僕であり、そして僕の弟だったからだ。

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先週末、うちの娘が帰国子女枠で私立中学を受験してなんとか合格させてもらうという出来事があったが、帰国子女枠であるがゆえに、入学してからの彼女はその生き方が問われると思う。そこで僕が語れるのは、僕自身が何をやってきたかしかないと考えた。僕が中学・高校時代をどう過ごし、それが今にどう繋がっているのか、それを僕なりに整理したのが本日の記事だ。

今はなんとか仕事でも使えている英語であるが、僕が今の仕事に就き、海外駐在員生活を都合3回経験してつつがなくやってこれた理由が何だったのか、1つ挙げるとすれば高校生活の過ごし方にあったと思う。

僕には弟が2人いて、小学生時代2人とも地元の柔道少年団に通っていた。その少年団が米国カリフォルニア州の南アラメダ柔道クラブと交流していた時期があり、僕が中3の夏、来日したクラブのメンバーの1人を我が家でホームステイさせることになった。当時現役で英語の勉強をしていた僕が通訳として期待されていたわけだが、ふたを開けてみると父の単語を並べただけのブロークンな英語の方が通じ、頭の中で文を考えてしゃべろうとした僕の英語は全く流れに乗れず、それまで英語の成績には絶対の自信を持っていた僕の鼻っ柱は見事にへし折られた。

地元の高校に入学した1979年の7月、僕は母から勧められて、当時毎週日曜の夕方17時30分から19時まで大垣市内の大垣ルーテル教会で開かれていたボーマン先生の英語教室に通うことになった。柔道少年団で指導されていた先生の1人から紹介され、母が僕にぴったりだと考えて行かないかと勧めてくれたのだが、正直なところあまり気が進まなかった。

「英語教室」とは書いたが、最初はこの1週間に起った身の回りの出来事を英語で説明し、ボーマン先生からの質問に答えるような会話をやり、後半は旧約聖書の「創世記(Genesis)」を読んだ。おそらく「バイブル・スタディ」という方が正しいのではないかと思う。

僕が通い始めた当時、この教室には、イリノイ大学での留学から帰ってきたばかりの学生さんとか、親の仕事の関係で米国で生活して帰ってきた女子中学生とかがいた。この2人は別格で英語がペラペラにしゃべれたため、僕はますます劣等感にさいなまれ、毎週日曜日が来るのが嫌で嫌でたまらなかった。2週間に1回は休んだ。1ヵ月に最低2回行ってれば、親にも示しがつくと考えた。記憶が定かではないが、ズル休みをしたこともあったかもしれない。

通い始めたばかりの高1の7月から、12月のクリスマスの頃までは、とにかくそんな「一勤一休」ペースで辛うじてやっていた。ただ、このままではいつまで経っても他の生徒について行くことができないという焦りはあったので、少なくとも日本語でいいから「創世記」のストーリーぐらい頭に入れておこうと思い、旧約聖書を自分で購入し、毎回教室に通う直前に予習をして行った。

そんな調子で過ごして高2に春を迎えた。春は環境が変わるシーズンで、イリノイ大学の学生さんや帰国子女の中学生はいつの間にか教室に来なくなり、気付いてみれば僕が中堅どころの立場になっていた。僕よりも後から教室に入って来られた方も何人もいらして、多少英語がおできになる社会人の方もいらっしゃれば、逆に僕よりもおできにならない方もいらっしゃった。周囲を見る余裕が出てきたからか、突然、本当に突然、ボーマン先生が話されている英語が理解できるようになった。

いったん英語が理解できるようになると、あとは加速度的に力がついていく。学校の英語の授業も(別の理由があって)身が入ったし、ラジオ講座『百万人の英語』もできるだけ聴いた。そういうインプットを沢山して、それをアウトプットする場がボーマン先生の英語教室だった。自転車で通って片道30分はかかったが、それも苦にならなかった。高2から高校卒業まではほぼ皆勤だったのではないかと思う。

教室の生徒さんの出入りは多く、ちょっと来て数回出席して来られなくなる方も多かった。今だから白状するが、そんな中には同じ高校から東京の女子大の英文科に進まれた憧れの先輩もいらしたし、市内の別の高校に通っていて英語弁論大会で上位入賞し、米国に短期ホームステイするというのでその準備で通っていた同い年の子もいた。(のちにこの子のお兄さんと僕は偶然同じ職場で働くことになるのだが。)

こうして英語を話すのに恥ずかしさを感じなくなったお陰で、僕は私大の推薦入試もクリアできたのだと思う。以前述べた通り、僕は英語の筆記試験は手も足も出なかったが、小論文と英語面接で挽回してなんとか合格した。大学入学後はまた英語で苦労することになるのだが、少なくとも高校生としては標準以上のレベルの会話は英語でできていたと思う。

自分の話ばかりになってしまったが、ボーマン先生は僕の成長をそうして見守っていて下さった、僕の英語に関しては最大の恩師だと今でも感謝している。大学進学が決まった後、1982年1月だったと記憶しているが、僕はボーマン先生にお供して、静岡の聖光学院というカトリック系のミッションスクールに先生の知人を訪ねて行った。この訪問自体はその後に繋がらない単発のイベントだったが、大垣から静岡までの行程は先生と僕だけで、現地でも英語オンリーだった。それでも普通に過ごせた。印象に残っていないのだから、恥をかくような出来事がなかったということなのだろう。

こうした高校時代の経験から僕が我が子に伝えたいこと、それは「嫌なことでも最低半年は我慢してやってみよう」ということだ。また、こうした自分の経験を振り返ってみて自分自身に言い聞かせなければならないのは、たとえ我が子がダラダラやっているようにしか見えなかったとしても、それが自発的な行動に繋がる瞬間(Tipping Point)が必ず訪れるから、その場でガミガミ言うよりも、我慢して見守れということだと思う。

今回この切り抜きを取っておいてくれた弟に感謝するとともに、今年の年末家族連れで帰省するなら、久し振りにボーマン先生を訪ねてみようと思った。
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Sanchai

母親として毎日の生活に追われていて
今、知らなかった息子の成長過程を知ることができた 子供たちにとっても理解あるお父さんでいてください

by Sanchai (2011-12-08 22:28) 

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