SSブログ

『差別原論』 [読書日記]

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

  • 作者: 好井 裕明
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2007/04
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
「差別は自分と関係がない」、そう思う人が多いかもしれない。けれども、ひとをあるイメージで決めつけ、からかい、軽蔑する。そんなことはないだろうか。いってみれば、自分と世の中を繋ぐ一つの形が差別なのだ。さまざまな“構え”や“ぎこちなさ”を捨てれば、差別と“わたし”の生き生きとした出会いが生まれる。この問題と向き合うときの姿勢を語り、具体的に差別とつきあう方法を提案する。
以前、『差別と日本人』を読む際に、もう1冊ぐらい同種のテーマのもので新書サイズの読みやすいものを読んでおこうと思って図書館で借りたのが本書である。今週は夜の予定があったり、体調を崩しかけて早目の就寝を心がけたりしたため、夜に記事更新する時間をあまり取れず、読了から1週間放ったらかしになってしまった。

ただ、新書サイズなのに読み進めるのにも時間を要している。途中で野麦峠関連の本を読むような浮気心を出したからということもあるけれど、本書については途中からなんだか読んでいて面白さを感じなくなり、読み進めるのがむしろ苦痛に思えてきた。本書では差別と著者が感じた具体的事例を非常に多く散りばめられているが、そのひとつひとつが僕達が日常生活の中でついやってしまうレベルのお話であり、もっと社会的インパクトの大きな象徴的な問題や事件に関するものではなかったので、途中から満腹感が出てきた。「原論」というからにはそうなるのは仕方がないのかもしれないが、満腹感はあったのに物足りなさも感じた。

『差別と日本人』を読んだ時の感想には、「差別はいけない、自分もやらないようにしたいし、子供達にもさせないようにしたい」という気持ちを前提に書いていた。ハンセン病回復者や家族に対する差別や在日韓国人に対する差別、部落出身者に対する差別というのは、僕らの普段の生活の中で直接対峙することが殆どないわけで、言ってみれば「対岸の火事」と言える。勿論、そういう発言がつい口から出て来てしまう親とかを見ると、鼻白むものは感じるが。

「対岸の火事」と見ているからこそきれいごとが言えるのかもしれない、実際に向き合ったらどうかというところには100%の自信があるわけではない。僕は「韓国人が嫌い」という発言を家族の前でしていることが多いが、それは学生時代に同じ研究室にいた韓国人留学生が、僕の個人的な落ち度に対して「だから日本人は~なのだ」という発言をしたのがきっかけで、言わば韓国人に差別されたという経験があるからだが、その人との個人的な経験だけをもとに「だから韓国人は嫌いなのだ」と一般化して述べるのは、言わば差別に対して逆差別の発言をしているようなもので、褒められたことではない。

肝心なのは、僕自身もついつい差別的発言をしてしまっていることなのである。だから、自分をさておいて総論として「差別反対」を唱えた前回のブログの記事には、書いていて自分でも物足りなさを感じたところがある。

その意味では、本書の冒頭第1章「”差別の日常”という主題」というのは、そこだけでも読めてよかったと思う。
差別は「してはいけないこと」「あってはならないこと」ではない。差別は「してしまうもの」であり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにし続けたらいいのか」と自らが日常生活の中で考え、いろいろと実践するうえでの”意味ある手がかり”であると。差別は私たちが普段の暮らしや人生の行程を進めていくうえで、回避し得ない、というよりむしろなかば必然的に遭遇し、ときに上陸し一定期間滞在する”島”なのだと。そして、その”島”を探検し、どのようにしたらそこから生きるうえで役に立つ面白い”何か”を発見することができるのだろうか。(p.37)
こうした考えに基づき、著者は日常我々が遭遇するような事象のひとつひとつについて、一見それが当たり前で一点の非のうちどころもないように見えても、それを疑ってみることが重要であると本書の各所で述べている。(単なるイチャモンに見えるところは僕の理解力の乏しさか。)
どこかにある専門的な知識を仕入れながら、自分の暮らしに差別問題が関わることのないように整理しておき、問題についてよく知っており、問題を理解している人として、”まじめそうな姿勢”を身につけること。差別問題を自分の暮らしの具体的な出来事から考え、自分は差別などしたくないと普段から知識と暮らしとの繋がりを考え、生きていくなかでの重要な問題の1つとして”まじめな姿勢”で差別という出来事と向き合うこと。この2つはまったく別物なのである。(p.93)
ここを読むと、前回の記事を書いた時の僕の姿勢は「まじめそう」に見えるだけだとわかってくる。
 もちろん、過剰な”言葉狩り”はする必要なないと思う。しかし、今は差別を考える枠組みが緩み、従来守られるべきと考えられている規範も金属疲労を起こしているように思う。その結果、微細で些細だと思われる差別的な営みもまた、息を吹き返し、またより明確にひとを排除していく差別的な営みもまた息を吹き返しつつある。こんな現状認識が私にはある。だからこそ、「あたりまえ」を常に疑い、”普通であること”が持つ権力行使に敏感になる必要を感じているわけである。(pp.186-187)

差別という現象は、環境や福祉など社会問題の1つとして存在しているのではなく、まさに私たちが暮らしている現在の世の中の根底にある現象であり、社会のあらゆるところで、常に沸き起っては消え、ということを繰り返している普遍的な現象だから。いわば差別を考え、それを読み解き、さらにはどのようにしたら解体することが可能なのかを考えることこそ、現代社会を考える基本なのだから。(p.30)

昨日夜のNHKニュースでこんな報道がされていた。アルビノの方が「外見から注目されることは避けられないので、それに悩むよりは周囲とのつきあい方を考えて自分なりの方法で友達を作ってきた」というインタビューには頷かされるものがあった。
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110220/k10014175661000.html
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0