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『仏教抹殺』 [読書日記]

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

  • 作者: 鵜飼 秀徳
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: Kindle版
内容紹介
明治150年でも語られない闇の部分、それが廃仏毀釈だ。実は、興福寺阿修羅像、五重塔も消滅の危機にあったのだ。神社と寺院を分離する政策が、なぜ史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか? 鹿児島、松本、伊勢、東京、奈良、京都など日本各地に足を運び、埋もれた歴史を掘り起こす近代史ルポルタージュ。
【Kindle Unlimited】
たびたびブログでも懸念を表明してきたが、7月は序盤から中盤にかけての読書のペースが極端に悪く、最低ノルマと考えていた「月10冊」がクリアできないとの危機感にかられて後半を過ごした。読書のペースを緩めたからといって誰かに迷惑をかけるわけではないが、読書は長年やってきた自分のアイデンティティみたいなものだから、それに割く時間が十分取れないというのは僕自身の心の安寧を相当かき乱す。

今、この記事を書いている7月31日時点で、なんとか持ち直して9冊までは届きそうなところまで挽回はした。しかし、個人的に感じている読書のペースはやはり遅く、読み進めるのに相当なエネルギーを使った。これもたびたび書いていることだけれど、僕は自分の読書のペースが遅いという自覚がある場合、あえて小説を選んでペースアップを図ろうと心掛ける。そういう目的もあって7月20日頃には経済小説も含めたのだが、その後これといって読みたい小説も思いつかず、Kindle Unlimitedのラインナップを見て、多少興味はあるけれどもカネを出しては買わないだろう本を選んで読むことも始めた。

本日ご紹介する文春新書の1冊も、そうして選ばれたものだ。そして、著者には申し訳ないが、自分が訪れたこともないような土地での廃仏毀釈の盛り上がりと収束の経緯については、斜め読みした。

所属先の前のトップが「明治維新」を礼賛しておられた方だったので、明治維新絡みの文献は2019年頃相当重点的に読んだ。明治維新150周年から間もない頃で、当時明治維新を振り返ると言う新刊書は多かったようだが、廃仏毀釈運動を深く掘り下げる文献は目立たず、僕の読書文献リストには含まれていなかった。

父を亡くして以降、自分の仏教に対する向き合い方が少し変わって来ていて、自分なりに仏教絡みでの日本史上での出来事については少しは知っておこうという気持ちが出てきた。「コテンラジオ」の影響もあるかもしれない。今を生きている僕らから見たら、過去に起こった出来事がいかに愚かな行動だったのかがよくわかり、なんでそんな行動選択をしてしまったのか、過ちを指摘するのは簡単かもしれない。でも、コテンラジオでたびたび言われているのは、そこに至るまでには数々の経緯があり、時の為政者や関係者たちは、その置かれた諸条件の中で、考えられるベストの選択をした可能性が高いということなのである。

廃仏毀釈にしても、それまで長きにわたって日本では普及してきていた神仏習合が、江戸時代の国学の台頭や仏教関係者の既得権益化の中で見直される機運が出てきて、それが明治維新という大きな変革を契機に、神道と仏教を切り離して天皇を神聖視させようという動きになり、それに長年の鬱積を晴らそうとする各地の神官や住民が乗り、仏像、経巻、仏具の焼却や破壊、寺の廃止につながっていったらしい。

現代を生きる僕らは、アフガニスタンでタリバーンが切り取ったと言われるガンダーラの仏像の顔を見て心を痛め、また北インドでも国立資料館でムスリムの偶像崇拝否定の動きの影響で破壊された仏像の残骸とかが展示されているのを見て、「なんて愚かなことをしてしまったのか」と嘆いたりする。でも、そういう僕らだって、明治初期には日本で同じようなことを平気で行い、大切な仏像、仏具、経典等を燃やしたり、海外への流出といった事態を招いたりしてきた。仏像や仏具を溶かして、京都の再建に必要な金具の鋳造に再利用されていたなんてエピソードを見ると、今見えているものと、150年前に起きた出来事とが自分の中でつながり、とても複雑な気持ちになる。

本ルポルタージュは、そうした思いを常に感じながら、ページをどんどんめくって読んでいった。全体の流れを把握したいなら、「はじめに」と「結びにかえて」を読むだけでも事は足りる。あとは8章にもわたる各地での廃仏毀釈の動きと、それが今にもたらしている影響のルポに充てられている。僕にいちばんゆかりのある地は東京・調布の深大寺なので、ここの神仏分離の結果が、今どのような形で残っているのかを知るのには良かった。

僕らはどうしても、今自分のまわりで見えている景色が日本国内のどこでも当たり前のように見られると思ってしまうところがある。お寺があり、その近くに神社があり、その周りに集落が形成されているのが当たり前だと思っていたら、日本には寺院の数が極端に少ない地方が今でも存在するらしい。また、僕の実家は神社の境内の並びで真言宗のお寺があるが、そのご近所にある浄土真宗のお寺と違って、住職っぽい人はいないし、信者が集まるという雰囲気もなかった。なんで神社とお寺が地続きなんだろうかといった疑問がふと頭をよぎった。

今僕たちが当たり前のように見ている景色が、過去にどのような経緯でそうなって今に至っているのか、自分の暮らす地域を見る視点の1つとして、神仏習合や廃仏毀釈運動のことは、知っておいてよいと思った。

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