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『「隔離」という病い』 [仕事の小ネタ]

「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (講談社選書メチエ)

「隔離」という病い―近代日本の医療空間 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 武田 徹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/07
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
強制収容、恐怖の宣伝、終身隔離。なぜ、ハンセン病患者への過酷な差別は、現代まで続いたのか?なぜ、近代の医療空間は、これほど歪められたのか?O‐157、エイズを含め、日本社会の「病い」観を問いなおす。
やや遅きに失した感があるが、実は先週、職場内の自主勉強会で「ハンセン病と人権」というテーマで発表を行なった。僕の発表は、隔離という方法論そのものに対する批判というよりも、隔離された場で行なわれていた行為を批判し、その上で、隔離がいつまで経っても解除されず、放置されてきたことを批判した内容になっている。個人的には感染者を隔離することでそれ以上の感染経路を一時的に遮断するという方法論はあってもいいと思うが、問題はハンセン病のような感染力の弱い病気で、かくも過酷な患者隔離政策をかくも長く行なう必要があったとは思えない。にわか勉強で浅慮ではあったかもしれないが、ひとまずは発表はこなし、日本で行なわれていたことについて、同僚に知ってもらうことはできたかなと思う。

この発表に向けては何冊かの参考文献を新たに読み、そこで書かれていることの一部はこのブログでも紹介させていただいた。未だ紹介していなかったのがこの1冊。実は読了が勉強会での発表に間に合わず、後になってから読み切ったものだ。でも、本書のキモは前半部分にあるので、発表に大きな影響はなく、本書の内容もある程度は発表に反映させることができた。

ただ、この本は「隔離」という方法論そのものに批判的である。特に、隔離の徹底を国に対しても主張し続けた長島愛生園園長(当時)の光田健輔のことは酷評している。光田に対して好意的な評価をしている本は探すのが難しいだろうが、それにしても本書は光田を知る者への取材や記述を詳しく調べ、光田健輔という人物自体をかなり詳しく浮き上がらせている。その点ではこれまで読んできた僕の参考文献ポートフォリオに付加価値を付けてくれる1冊だった。

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ハンセン病の記事を書いた僕に「こんなかわいそうな人たちがいたんですね」というしかない人たち。彼らの存在は、本人の良心と良識にかかわらず、条件さえ揃えば、第二、第三のハンセン病者隔離問題を生み出すだろう無垢さをいまだに日本社会が宿している証だと僕には思える。排除し、隔離し、忘れてしまうという三段ロケット式思考は、今なお健在であり、しかも誰もが悪気があって排除、隔離、忘却を行っているわけではないというところが深刻なのだ。(p.17)

伝染病説が入って来て、隔離施設を作り出しはしていたものの、日本で依然として遺伝説が消えなかったことは注目に値する。(中略)こうした遺伝、電線の両説が入り交じる状況は複雑である。遺伝説だけが存在していた地域は、患者を出した家が家系的に虐げられはするものの、それでもなお雑居が可能だった例がある。遺伝病ならば感染の恐れがないからだ。(中略)ところが、そこに伝染病説が登場する。伝染病としての正しい知識、つまり感染や発病の条件がいかなるもので、どのようにすればそれが防止されるのかの的確な情報が入るのであればよいのだが、伝えられるのは遺伝説を払拭できないような曖昧な知識でしかない。遺伝病、さらには業病、天刑病としての、人格を侵犯する恐ろしさと、伝染病としての感染の恐怖、この絡み合いが相乗効果を発揮してハンセン病を恐れ、排除しようとする動きに繋がってゆく。そしてこうしたメカニズムを見事に利用した人物があらわれる―――。それが当時、養育院医師の職にあった光田健輔だった。(pp.31-32)

こうした強国意識と、それと裏腹の関係にある未開国と見られたくないと望む意識にと訴える論法こそ光田が「恐怖の宣伝」に加えて用いるようになったものだった。かくして患者を救うことよりも、いかに国家としてハンセン病を撲滅できる力を有するかを示すことが競われるようになってゆく。(p.38)

問題は限度を越えたトラブルが発生した場合だ。その時は「皆に迷惑を掛けた」罪が重大視され、その人に全責任をかぶらせ組織から出ていってもらうか、極端な場合、死んでもらう。身内には寛容だが、寛容の限界を越えてもはや身内とみなされなくなった相手には極端な不寛容にと転じる―――、こえは例えば日本企業が不祥事を後始末する場面でしばしば見られる傾向だが、それと同型的な変転がハンセン病患者への処遇にも窺える。
 ハンセン病者は病原菌を有するという差異によって共感できない非・身内的存在=他者となった。彼らは病者として見下され、「皆に迷惑をかける」から絶滅収容所的な療養所に排斥されてもしかたがないと結論づけられてしまう。こうした他者に不寛容な社会の「質」が、ハンセン病者への非人道的な処遇を黙認してきてしまった土壌としてあったのだと思う。(pp.69-70)

僕はハンセン病患者達の人権が、隔離が不必要な病気にかかっていたのにもかかわらず、療養所の中に閉じこめられていたから蹂躙されたとは考えない。というのも、その論理の裏側には、感染力が強い病気にかかった患者は強制的に隔離してもしかたがないという論理が貼り付いている。そんな論理が潜在的に生き延びている以上、ハンセン病を巡って多くの問題を孕んだ隔離はなんどでも繰り返される。(p.70)

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つまり、僕のように「一時的であれば隔離も必要」と考えるあり方自体が危険だと著者は言うのである。すみませんでした。

僕の発表に対して、勉強会に出席して人からは、やはりハンセン病で起こったことは他のもっと感染力の強い伝染病が出てきた時にも起こり得るのではないかという懸念の声が上がった。日本の警察は、上から指示があれば徹底してやる能力を持っているので、なんとしても捕えて強制的に隔離を行なうだろう。そして、そえが「我が国はしっかり対策を取っている」という政府の対外アピールの材料にも使われかねない。

隔離され、距離を置かれた人々の置かれる状況には思いを寄せることなく、壁のこちら側におればひと安心で、こちら側の人間は「一丸となること」が強調されて、それにわずかでも疑念の声を挟めば「非国民」と言われる―――最近、同じような話がどこかで聞かれたような気がする。

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