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『アイデンティティと暴力』 [読書日記]

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

  • 作者: アマルティア・セン
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2011/07/09
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
21世紀の世界は暴力に満ちている。はたしてこれは、「文明の衝突」なのか?西洋とイスラムは対立するしかないのか?ひとは宗教や文明にもとづいたアイデンティティしか持てないのか?本書では世界史、哲学、経済学などの豊富な知見をもとに、現代世界を読み解く新たな枠組みを提示する。アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択できる」のだ。
先週の職場での勉強会で取り上げた本。2週間前から読み始めていたが、中だるみがあってなかなか捗らず、韓国出張前の週末に図書館で集中して読み込んで取りあえず読み切った。

勉強会の席上でも苦笑いしながら出席者と話し合ったが、本書は翻訳者による巻末解説と冒頭のまえがきを読めばあとの各章に書かれていることは端折ってもいいぐらいだ。本書を通じて繰り返し述べられていることを一言でまとめるには、翻訳者が解説で述べている次のような一文でいいのではないかと思う。

「アイデンティティ」――自己認識、つまり個人が帰属する集団股は属性と同化すること――は、文化・宗教・政治を背景としたものであっても、はじめから、「与えられたもの」ないし「変えることはできないもの」と考えるのは誤りであり、そのような認識そのものが国家間や民族間の偏見や対立を助長しかねない。(p.257)
―――それだけ。まあ、強いて付け加えるなら、我々は世界の人々がなんらかの包括的で単一の区分法によってのみ分類できるという、偏った思い込があるが、世界の人々を文明ないし宗教によって区分することは、人間のアイデンティティに対する「単眼的」な捉え方である。実際の人間のアイデンティティなんてそんなに単純なものではない。世の中を、キリスト教対イスラム教とか、インドで言えばヒンドゥー教とイスラム教とか、ルワンダで言えばフツ族とツチ族だとか、ケニアで言えばキクユ族とその他とか、或いは西洋的価値観とアジア的価値観とか、ある人間集団を別の人間集団と分ける見方はいろいろあるが、人間というのはそういう二項対立的なアイデンティティではなく、複数のアイデンティティを持っている。

だから、フツの人は、「ツチを殺せ」と一部のリーダーがアジっているのを聞いてそれに乗るのではなく、立ち止まってちゃんと考えろ、ツチの中にはあなたが持つ複数のアイデンティティと同じアイデンティティを共有できる人もいる筈だ、冷静になれと著者は訴えているのである。

確かに、僕らが複数のアイデンティティを持つという指摘は当たっている。僕はプライベートでは会社とは別の名刺を持っているが、日本語で書かれたその名刺の裏側には幾つかの肩書、というか、所属グループを列挙してある。単に所属している会社名だけではなく、市の国際交流協会の委員をやっているとか、町の道場で剣道の稽古をやっているとか、インドの某NGOの理事を引き受けているとか、翻訳の仕事を手伝えるとか、某私大の博士課程で勉強中であるとか…。

ただね、その時々でそれら複数のアイデンティティには優先度がつくことも忘れてはいけない。職場で仕事やっている時に、「剣道の稽古が大事ですから」と言って定時で職場を後にする勇気は残念ながら僕にはない。TPOに応じて、複数のアイデンティティの中から使い分けているのが普通の姿だろう。

敢えていくつか突っ込みを入れるとしたら、こんなことも言える。

第1に、民族紛争で、ある民族集団が別の民族集団をやっつけろと血走って口々に唱えている時に、渦中の江川の昔のように、「みなさん、落ち着いて下さい」なんて言えるだろうか。かえって同じグループの仲間の連中から半殺しの目に遭わされそうだ。そういう周囲が熱狂してしまっている時に1人「冷静になれ」と唱えるのは、口で言うほど簡単なことではない。

第2に、そういう特定のアイデンティティで彼我を線引きさせて対立を煽ろうとする政治的エリートをコントロールする術があまり書かれていない。「~族殺せ」と血走って大騒ぎさせられている連中と、彼らを煽っている一部の仕掛け人に対し、そうした行為を抑制させるのにどうしたらいいのか、単眼的なアイデンティティではない複眼的なアイデンティティを意識付けさせるには、誰にどのように働きかけたらいいのか、処方箋めいたものは本書にはあまり書かれていない。

第3に、著者アマルティア・センはインド人なので、本書の中でも度々インドの話が事例として取り上げられているが、その割に、本書ではインドのカースト制について全く言及していない。カースト制こそ彼我の線引きを数世紀にもはたって維持発展させてきた根本のところにある。それはヒンドゥー対ムスリムの対立軸が出来上がる以前から制度としては存在していた。「アイデンティティと暴力」というテーマであるにも関わらず、物足りなさを感じるのは、インド人でもある筈のアマルティア・センが、著書の中でカースト制について一言も言及していないところにも大きな原因がある。

結局、言うは易し、行なうは難しということなのである。現場の熱狂に巻き込まれることなく、静かな書斎において思索を巡らせるだけでいると、こういう書き方になってしまうのかもしれない。こういうタイプの本も必要だと思うが、実際の現場でどうやっているのかというプラクティカルな視点からの書き物も読んでみたいものだ。
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