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『途上国の人々との話し方』(その1) [読書日記]

途上国の人々との話し方―国際協力メタファシリテーションの手法

途上国の人々との話し方―国際協力メタファシリテーションの手法

  • 作者: 和田信明・中田豊一
  • 出版社/メーカー: みずのわ出版
  • 発売日: 2010/11
  • メディア: 単行本
満を持して本書の紹介を行ないたい。いろいろと思うところもあるので、何回かに分けて紹介したい。本日はその第1回。先ず、本書を読むにあたっての僕の問題意識を述べておきたい。

インドでNGOの活動をいくつか見させていただいて、僕は次のような問題意識を抱いた。

1)協力期間の制約
特に外国の援助機関から資金を受け取って事業を実施しているところは、資金支援の期間が3年間とか5年間とかと決められており、そのためにできるだけ多くの活動を決められた期間内に盛り込もうとする傾向がある。こうしたメニューの詰め込みは一見華やかでいかにも活動いろいろやってますよという印象を見る者に与えるが、住民の主体性、住民参加に任せると言いつつこちらの期待した通りに住民が動いてくれないと、実施請負団体側に計画遂行への焦りが生じる。特に年度毎に進捗報告が求められる場合は年度末近くになるとこのプレッシャーは相当なものだ。待っていてもらちが開かないとなると、団体側のフィールドスタッフはついつい住民に助け舟を出して、これをやってはどうか、あれをやってくれと口にしてしまう。こうなると住民は「これは彼らの団体の事業、せっかく我々の村に来て頑張ってくれているんだから我々も協力してあげよう」と考えるようになる。自ずと住民の主体性は低下し、協力期間が終了すると住民は何もしなくなる。持続可能性などあったものではない。

2)各実施団体側のミッションと住民側の優先ニーズのマッチング
お金を持っている外国の援助機関は、資金援助に「色」をつけることが多い。この予算でエイズ対策をやれ、児童労働対策をやれ、女子教育をやれ、といった条件が課せられるのだ。だが、これらがその村にとっての最優先課題かというとそうではないことの方が多い。エイズ対策事業のお金だから、たとえ村に鳥インフルエンザの感染者が発見されたとしても援助資金からの流用はそんなに簡単にはできない。また、それ以前に、そもそも外部者がその村を見て感じる問題点と、村の住民自身が日常生活の中で感じている不便さや様々な制約は異なる。「村には問題がある」と外部者は言うが、それは外部者から見た勝手な思い込みで、実際住民がそこで暮らしていくには多少の不便はあったとしてもそれほど大きな問題があるとは感じていない。外部者から「あんたたちの村はこんなに問題だ」と言われれば「そうかな」と住民は思うかもしれない。途上国の村を訪ねた日本人がよく「懐かしさを感じる」と口にするが、もし日本の社会が失ったものを途上国の村が未だ持っているというのなら、そんな村に「問題がある」と言うこと自体がおかしい。

3)村に既に存在する組織制度と事業実施のために行なう「住民組織化」のマッチング
これはインドでずっと引っかかっていた点で、インドの村に行けば村落議会はあり、グラムパンチャーヤトもある。憲法上で規定されたインドの地方行政・立法制度である。しかし、外部から来る援助機関は、そこに利用者グループのような目的限定の新たな住民組織を形成しようと働きかける。その住民組織を本当に住民が必要としていることが住民自身によって認識され、そのために必要な知識ノウハウが欠けていることが自覚されるようになれば、研修を通じて能力強化を図り、組織化への支援を行なうのは有効だろう。しかし、実際には協力期間の制約もあることから、住民組織化は協力期間もいちばん最初の時期に行なわれるケースが多い。しかしそれは援助機関側の都合で作られたものであり、援助機関がその村にとどまっている間のお付き合いとして住民が参加しているに過ぎない可能性が高い。自ずと協力期間を終了して援助機関が村を去ってしまうと、住民組織は機能低下に陥る。

4)与えられるのに慣れすぎている住民
村の人々は援助機関や政府の支援プログラムで支援されていることに慣れている。何を言ったら外から来た人が喜ぶかを知っている。「この村にはこんな問題があるんです」と言えば支援金は入って来るし、その支援で「私たち、こんなに頑張りました」と見せれば、政府の役人も援助機関のスタッフも喜ぶということを、住民はこれまでの経験でよく知っている。村の構造物が壊れればまた支援を求めればよい。これまでに外部からやって来た人々の間で情報共有がされていなければ、別の人が来たときに村の窮状を訴えれば別の支援金が入って来ることもあるだろう。そんなすれた住民に対して、新たにやってきた援助機関が、「私たちのアプローチはこんなに違う」と言ったところで、違いを明確に示すのは非常に難しい。多少の違いはあったとしても、現地の事業実施請負団体・NGOが現場でとっているアプローチや活動内容に大きな差はないし、それが特に欧米の特定の「ミッション」を秘めた大手NGOが現地パートナーを使って実施しようとする活動の場合は、現地パートナーは結局下請けとして親団体から決められたメニューに基づいて活動展開しているだけで、団体としての独自性を発揮しづらい状況にもある。こういうNGOの「系列化」は、インドではよく見かけた。

5)村に元々存在しない概念の持ち込み
「ジェンダー」とか「エンパワーメント」とか「ガバナンス」とか「人権」とか、とかく先進国の援助機関は援助プログラムに自分達の推進するアジェンダを載せたがる。これ自体は援助機関側が抱えている制約条件としてはわからぬもないが、こんな言葉をそのまま村の住民に使っても理解などしてもらえるわけがない。(かく言う僕自身もちゃんと理解しているとは言い難い。)住民に話す時にはもっと日常生活の具体的な事象に落とし込んでわかりやすい言葉に通訳しないと、住民が理解して行動に繋げてくれることなど期待することはできない。「あなたたちにはこんな権利があるのにそれが守られてないから守られるよう頑張りましょう」という言い方を外部者がしてしまうと、その時点で外部者と住民の間には上下関係が生まれる。言われた側の人々のオーナーシップは損なわれてしまう恐れがある。尻を叩く人がいる間は頑張るが、いなくなったら何もしなくなるのではないか。

6)協力期間終了後の村とのかかわり方
カネの切れ目が縁の切れ目ということで、スポンサーからの資金提供の期間が終了すると、現地パートナーだった団体は独力では事業維持できないため、規模を縮小し、多くの村からは撤退する。住民参加で作られた構造物は住民組織が維持管理を行なうため、現地NGOはいなくてもよくなる―――そういうシナリオを元々想定しているのだから、撤退自体は規定路線だろう。しかし、実際には上記1)で述べたような協力期間の制約が効いていて、住民側のオーナーシップは損なわれていることが多い。住民組織を作って、3年間じっくり育てたのだから、協力期間終了後は自分達でできる―――そういう村ならいい。しかし、実際のところは無理無理作った住民組織は右往左往している。もっと悲惨なのは順次組織化を進めていくケースで、後から形成された住民組織ほど何かしらの問題点があって遅れて形成が進められたのにも関わらず、所定の研修モジュールを最後まで終了できないままにプロジェクト終了の日を迎えてしまう。慌てて研修実施しておれば自ずと詰込み式になってしまい、学習効果も低い。

組織形成の進捗に問題があれば、協力期間を延長するという選択肢もあり得る。しかし、万が一期間延長せずにプロジェクトを終了せざるを得ない状況であったとしても、完全撤退してその後時々のぞきに来ることもせず、現場がどうなっているのか、住民はどうしているのか、そうしたことを確認しないというのはあり得ないと思う。住民は、見られることが動機付けになることもあるだろう。プロジェクトが終了しても、時々は村を覗きに行くということはあってもいい。

以上のようなことを考えながらインドでの3年間を過ごしていた。

こうした問題意識を踏まえて、次回は著者が関わったアンドラプラデシュ州スリカクラム県の事業がどのような特徴を持っていたのかについて紹介してみたい。
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