SSブログ

『インド蚕糸業への協力』 [シルク・コットン]

EPSON003.JPG唐沢正平・原田忠次
『インド蚕糸業への協力』
経済技術協力叢書Ⅱ 昭和34年11月 (社)アジア協会

すごく古い本を見つけた。

1958年に1年間インドに派遣された2人の日本人養蚕専門家の現地活動報告書である。まだJICAなんて存在しなかった時代の話、しかもネルー首相だった頃の話だ。

コロンボ計画に基づく日本人派遣専門家の1人である唐沢正平氏は、雌雄鑑別技術の日本の第一人者で、1904年に石渡繁胤博士が発見した幼虫期に雌雄を見分ける識別法を実用化し、1921年に女子鑑別手を養成した人である。一代雑種(ハイブリッド)を作るためには親となる原種の雌雄鑑別が必要で、しかも短期間に大量の識別を行うためには蛹ではなく幼虫期に識別して労力節約を図ることが求められる。その方法は、五齢幼虫の腹部の斑点の違いで識別するというもので、子供向けの図鑑にも写真入りで紹介されている。養成された女子鑑別手は、国内各地に派遣され、幼虫期の雌雄鑑別技術の定着と一代雑種の普及に大きな役割を果たした(『シルクのはなし』pp.98-99)。

そんな日本の第一人者も、昭和30年代の高度成長期になると化学繊維の台頭に養蚕業は徐々に脇に追いやられ、斜陽産業と見られるようになってきた。その一方で、当時のインドでは養蚕業は「夜明けの産業」、「インド人の憧れの的を「一に黄金、二にシルク、三に宝石」という順位で示されるように、優美なサリーや神秘的なベールなどの日常必需品のほか、財産の象徴あるいは宗教儀式用として、シルクは特殊な意義を持っている。もしそれが購買力で裏付けられるならば、4億の人口による絹の国内市場は無限といってもよい」(前書き)という状況だった。当時のインドの人口って、4億だったんですね。

そんなインドに日本の養蚕専門家は派遣されたのだった。マイソール州(今のカルナタカ州)、ジャム・カシミール州、西ベンガル州で活動をされた。インドの養蚕業はカルナタカ州が最も盛んで、当時はジャム・カシミールと西ベンガルがそれに続く産業集積があったらしい。そのほか、唐沢専門家はマドラス州(今のタミル・ナドゥ州)、パンジャブ州、ウッタル・プラデシュ州(今のウッタラーカンド州)にも短期の養蚕指導で訪問されている。

唐沢専門家の報告は主にマイソールでの活動について書かれている。面白かったのは、唐沢式雌雄鑑別法を指導して感謝されたというくだりだが、当時のインド人の技術者は幼虫期どころか蛹体の雌雄鑑別法も知らず、雌雄は蛾になってからではくては判別できないと思っていたので、唐沢専門家の指導に非常に喜んだというところだ。唐沢専門家は、現地調査の結果、蚕飼育法の改善について重点的に実施指導をすることにされたそうである。マイソールの桑は軟葉薄葉ですぐ乾燥するのに、それまで一分目の角の細切りで1日8回も給桑していたが、唐沢専門家はこれを丸葉のままで1日3回給桑し、乾燥防止のためにクラフト紙三重で紙包育する方法を指導されている。日本だったらパラフィン紙が使われるらしいが、インドでは入手できないのでクラフト紙を代わりに使うようにしたらしい。マイソールの気候で飼育に適する品種として、9月~1月は日本種の二化×二化交雑種を、2月~8月はマイソール多化蚕×日本種の二化蚕の多元雑種を推奨されている。

原田専門家の報告はジャム・カシミール州と西ベンガル州の比較に重点が置かれている。カシミール谷は古くから養蚕の盛んなところで、一般に養蚕は年1回、5月早々から掃立てられ、山峡の遅いところでも掃立が6月上旬を越えることはない。
養蚕家を見ると、日本とちがって、遅れていて原始的でとうて比較にならない。蚕室は天井の低い8畳位か10畳位のたいていは土間で、周囲は土壁かレンガ窓の小さい昼も薄暗い室である。蚕箱、蚕加木もなく、稚蚕期も土間に直接飼われている。壮蚕は枝桑をそのままやっているので、見た目は日本の条桑育とそっくりである。電灯などは農村に入ると何処にもないから、ランプかカンテラである。補温もしないから上簇まで35日もかかる。除沙網ももちろんないから除沙もめったにやらず、上近く簇になるとうず高い蚕座の発酵熱で室がむんむんしている。収蚕から上簇後戸を開放して通風を良くすることも知らないし、知っていても野鳥が多くて開放するわけにもいかない。
 蚕を見ると驚くことには、姫、形、虎蚕中には暗色蚕さえ混っていて、目茶苦茶に雑多である。白繭種なのの黄血の蚕もおり、黄繭種なのに白血種が混っている。これは1つには州政府の蚕種製造所で外国から入れた一代雑種(F1)を養蚕家に飼わせた後も、その繭からまたF2、F3と複製して蚕種を配っているせいである。2つには蚕種製造所の建物が十分でないために一室で二品種以上を拌種するので、いかにしても品種が混ってしまうのである。
 養蚕室は熟蚕を拾い取ることはせず、蚕座に粗朶、稲藁、油ヒマラヤ松枝などを良い加減に乗せるだけである。蚕は繭を作る適当なスペースがないまま右往左往し、過熟蚕になってからやっと営繭する有様で同切繭がやたらに多い。養蚕家だけではなく州政府の養蚕所でさえ、上簇方法は右養蚕家のそれと全く同様で「まぶし」という決まったものがないのはただ驚くばかりである。
 州政府の製糸工場では、養蚕家でできた繭の全部を毛羽も取らず無選別で1モンド(10貫目)当たり65ルピー(4875円)で買取る。上繭、下繭、玉繭の区別もせず繭の良し悪しなども問題にせず皆同じ値段なので、カシミールの養蚕家は立派な繭をできるだけ多く生産しようという、日本の養蚕家のような意欲が全くないのも当然である。彼等の繭はすこぶる貧弱で雑駁で死ごもりが非常に多く、汚れ繭が目立ち一見して日本の下繭よりもなお悪く見える。(pp.85-87)
いろいろ難しい用語が含まれているのでわかりにくいかもしれないが、要するに生産性向上の余地がかなり大きかったようである。そこで原田専門家はこうした現状把握を踏まえ、カシミールの養蚕関係者にこんな提言を残している。第1に、近代的検査方法を確立して無毒卵を得ること、蚕室蚕具の厳重な消毒、第2には独自の蚕品種改良から優れた一代雑種を作って養蚕家に飼わせること、第3には近代的な蚕飼育方法の確立などである。なお、カシミールは気候条件的に一化性、二化性品種の飼育に向いており、日本の蚕種を導入しやすい環境であると評している。

一方、西ベンガル州では、カシミールとの比較において、4月からの夏期の高温、6月中旬から9月いっぱい続く雨期の高温多湿で日本の一化、二化の高級種には不適で、多化性かまたは多化×二化のF1以外の飼育は困難だと指摘しているが、他の点ではカシミールよりも数段上だと評価している。土壁かレンガ作りの蚕室は小奇麗で天井も高く立派な蚕架もあって、竹製の蚕箱や上簇箱などはデザインは違っても本質的な設計思想は日本のそれと変わらないと述べている。但し、桑栽培の方法は雑で遅れているという。

蚕種の貧弱な点について、原田専門家は将来的には11月から4月までの5ヶ月ぐらいで日本種の二化×二化、二化×一化、多化×二化なども飼ってみてはどうかと述べている。一、二化の純系種の育成は、カリンポンのような山間地で品種改良を進めることができるという。ベンガルの事情は立地条件が熱帯的なので、日本の蚕糸技術もそのまま導入しにくい。この立地条件に適応したベンガル独自の蚕糸技術を向上させる必要があると指摘している。

最後に、原田専門家の結論部分を述べておきたい。1つはインド蚕糸業の将来性に関する見解、もう1つは今にも通じるインドの役人の体質に関する厳しい苦言である。
 いずれにしろインドの蚕糸業は何もかも遅れ能率が悪いので、全インドで桑園面積が日本の40%近いのに、生糸生産額は日本の6%にもみたないし、また生糸の品質も悪く値段も日本の生糸の約2倍もするほど高い。日本生糸と国際市場での競争などは当分夢であり、彼らもそれを望んでいるのではなく、コッテージ・インダストリー(村落産業)としてもっと向上させ国内の絹の需用にだけでも応じたいというのが本音である。(p.115)

 問題はインドでは、知識人や上流の地位の人が実務に直接手を出すことを嫌い、文書の仕事をのみ好むことである。大事な仕事は無知な労働者に委され機械的に行われているに過ぎないので、そこからは、どうしたら能率が上げられるのかのアイデアも生れず、誰も考えない。これが他の何よりもインドの産業の発達を遅らせていると筆者は考えている。彼らがもっと仕事する人を尊び、知識人も進んで実務に手を出すようにならなければ、何もかも早急な進歩は望めない。(p.116)
これだけの問題把握と指導を現地でなさった2人の専門家が1959年に帰国した後、JICAが養蚕の技術協力プロジェクトをマイソールで始めるまでには30年もの間が開いている。その間にマイソールで何が起きたのか、専門家から指導を受けたジャム・カシミール州と西ベンガル州はその後どこまで養蚕業の生産性向上が図られたのか、本書の記述をベースラインにして、今後何とか調べられたらと思っているところである。
タグ:インド 養蚕
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0