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『調査されるという迷惑』 [宮本常一]

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本

  • 作者: 安渓遊地・宮本常一
  • 出版社/メーカー: みずのわ出版
  • 発売日: 2008/03
  • メディア: 単行本
 地域の文化や暮らしの智恵を学ぶために、実際に地域にでかけ、地元の方々を先生として地域を教科書に五感のすべてを駆使して学ぶことをフィールド・ワーク(野外調査)と呼びます。
 このブックレットは、日本国内でのフィールド・ワークをめざす人たちに、調査計画を立てて出発するまでにわきまえておいてほしいことをまとめたものです。(p.1)
僕がインドにいた頃、フィールド・ワークのようなことを何度か経験した。日本から来られた方々のフィールド・ワークに同行させてもらったこともある。通訳を介してやりとりをしなければならないという制約はあったにせよ、他の方のフィールド・ワークのやり方を見て、「あれで本当に知りたいことを知ることはできたのだろうか」と首を傾げたこともある。それを本当は指摘したくても、できないもどかしさも感じた。なぜなら、僕自身が自分のやっていたフィールド・ワークに100%の自信を持っていたわけではないからだ。

本書は、第1章に宮本常一が書いた「調査地被害」という論説が収録されている。それを踏まえて、第2章以降は安渓遊地が主に南西諸島の島々で行なったフィールド・ワークの経験とそれを通じて築かれた調査地との関係性についての考察を述べている。調査の結果をまとめた成果品は非常に多いが、調査の結果その調査地に何が起きたのかについて書かれたものは殆どない。秀逸なレポートで有名になった人もいるが、それによって調査対象・取材対象者に何が起きたかについてはあまり知られていないし、その業績を執筆者が現地にどのようにフィードバックしたのかもよくわからない。地域に現存する史料や農機具類などを資料とりまとめ用にと借りて行って全然返さないといったケースとかも相当あるらしい。マスコミの取材にも同じようなことが言える。取材地で住民に対してどのように振舞うのかという取材時の作法の問題に加え、出来上がった記事が報道された場合に取材先に対してもたらす影響にはもう少し敏感であって欲しいと思うことがある。

こういう話を聞くと、僕がやってきたことではやはり不十分だと思うし、他の人のやっていることに感じた違和感もやはり間違ってはいないのだとわかった。インドに赴任する前に本書を読んでいたら、僕の調査地での作法や地域との関わり方には相当大きな影響を与えていただろう。出会うのが遅すぎた――それが率直な感想である。

本書にははっとさせられる記述がかなり多い。いちいち全てを紹介していたら冗長な記事になってしまうので、少しだけご紹介させていただくのにとどめ、後は読者の皆様のご判断にお任せしたい。
調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人の良さを利用して略奪するものが意外なほど多い。(p.34)

調査というのは地元から何かを奪って来るのだから、必ずなんらかのお返しをする気持はほしいものだ。(p.15)

 問わず語りに宮本先生は、沖縄のかかえる課題についても聞かせて下さった。島を研究の対象にさせてもらう者は、その研究のテーマがなんであれ、島とその島びとたちの運命に無関心でいてはならないし、いられるはずはない、という先生のお考えがあってこういう話をして下さったのかもしれない。「地域がよくなっていくためには、地元から良いアイディアが出なくてはいけない。沖縄なら例えばインドジャボクという木を薬用に栽培するとか、さまざまな可能性が埋もれているはずだ。(後略)」(p.8)

本書でもう1つ参考となるのは、フィールド・ワーカーがいったん調査地と関わりを持ってしまった後の調査地との関わり方に関する考察の部分である。いや、フィールド・ワーカーとしての関わりに限らず、例えばネパールに山岳登山やトレッキングで訪れた日本人が、「世話になったから現地に恩返ししたい」というのもそれに当たるかもしれない(「恩返し」と言っている時点で訪問地へのフィードバックを考えているだけ偉いとも言えるが)。
 研究者の卵がみんな地域研究の現場で「濃いかかわり」をめざせば、地域にとっては大きな迷惑となる。だから地域研究を志す人たちが、フィールドにおける地域とのかかわりの落とし穴について思考実験的に疑似体験できるような教育プログラムが必要なのだと私は考える。具体的には、長く地域研究に関わっている者の責任として、地域との「濃いかかわり」が生みだすものについての、めいめいの恥ずかしい失敗談を含めて、なるべく正直に後進に語り、その記録を可能な範囲で残しておくことに意味があると考えている。(p.61)
こういう問題意識から幾つかの事例が紹介されている。そこで、著者は地域との「濃いかかわり」を手放しで勧めているわけではない。
フィールドでの濃いかかわりは、往々にして生涯をかけたものになります。お互いに相手の人生の物語の一部になるかもしれないという重い選択なのです。でも、誰しも体はひとつしかないし、人生は1回きり。とても、それだけの責任がとれない場合があることをよく自覚して、簡単には「濃いかかわり」の側に踏み切らないぞ、と自分に言い聞かせておくぐらいでちょうどいいのです。そうやって「学問と地域への正直さのバランス」をとる努力をしてほしい(p.86)

地域との関わり方については、もう1つ考えさせられる記述がある。それは、フィールド・ワークの中で明らかにその地域が今後好ましくない方向に発展(或いは衰退?)していく姿が想像できてしまった場合、研究者はその地域とどう関われるのかという極めて重要な論点である。
 長年、文化人類学者たちの関心の焦点(メシの種)であった「伝統文化」とそれを支えてきた地域は、今大きな危機にさらされている。そうした地域と文化の崩壊を目の当たりにして、良心的な研究者は無力感にさいなまれることになる。(pp.106-107)
明らかにコミュニティの崩壊が目に見えているという農村において、自分がどのように振舞うか、答えは1つではない。僕は研究者ではないが、5月にオリッサの山岳先住民の村を訪れた時、この村の行く末をどう考えても良い未来がなかなかイメージできず、確かに無力感は感じた。調査は調査として割り切って自分として何もしないというのは1つの選択肢だと思うが、放っておけば望む望まないに関わらずこの先市場経済化の波に巻き込まれていくのは間違いない村に、何もできないのは口惜しい。
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