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ウガンダの父 [時事]

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1月7日(土)付の日本経済新聞朝刊1面の連載コラム「ニッポンの力」の第6回で、「もの作り」1万㌔彼方に―アフリカへの投資、アジアの1/20と銘打ったアフリカでの日本人ビジネスマンの初期の活躍について幾つかの事例が紹介されていた。その冒頭を飾ったのが、ウガンダにおける1人のビジネスマンの逸話であった。
以下引用。

 ウガンダの首都カンパラ。社長室にかかる額縁には「躾(しつけ)」という文字が飾られていた。日本のもの作りの魂が息づく空間の主は、シャツ製造、フェニックス・ロジスティックス社長の柏田雄一(74)である。
 同国では柏田を「工業化の父」と呼ぶ。40年前、紳士用衣料中堅のヤマトシャツ(現在のヤマトインターナショナル)初の大卒社員として、同国政府との合弁企業の責任者に抜擢されたのが始まりだった。
 ミシンを見たこともない従業員に朝から晩まで大声を張り上げる日々。時間厳守、整理整頓、清潔の三点を40年がかりで現地の人々に教えてきた。「日本では当たり前のことがそうではない。一筋縄ではいかなかった。」と柏田は振り返る。
 内戦で兵士に銃を突きつけられたこともある。アミン元大統領のシャツを採寸した際には60㌢もある首周りに驚いた。柏田の帰国後に破綻した合弁企業を再建して欲しいとムセベニ現大統領が直々に要請した。カンパラでは「トヨタよりヤマトの方が有名」と元副首相のポール・オロノ・エティアン(67)は言う。

このお話は、1991年にPHPが出版したPHP愛と希望のノンフィクションシリーズ『ウガンダの父とよばれた日本人』(今井通子作)で紹介されている。なぜ登山家の今井通子氏がこの本の出版に関わったかというと、本人があとがきで述べているが、ウガンダ国内にあるマルガリータという山に登るために1989年に同国を訪問した際に柏田氏の話を現地で聞かされたからだという。既に柏田氏は帰国した後だったが、後任の玉田氏が今井氏一行の現地滞在のアレンジを行なった。日本大使館がないウガンダではヤマトの現地法人が大使館の代行をしており、今井氏はなぜ一介の民間企業が日本大使館の代わる外交機能を担っているのだろうかと疑問と興味を抱いたという。
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この本は元々小学校高学年向けの読み物として編集されたもので、読破するのにはさほど時間はかからない。僕はこのPHPのノンフィクションシリーズは、あまり日本では知られていないけれども国際的には高い評価を受けている偉人を紹介するとてもよい読み物で、子供達がもう少し成長したら是非読んで欲しいと思っている。日本の偉人伝記シリーズといえば豊田佐吉や野口英世あたりが紹介されるケースはいくらでもあるだろうが、ヤマトの柏田雄一氏だとか、ネパール・ムスタンでリンゴ栽培を導入した近藤亨氏だとか、ギフチョウを発見した「日本のファーブル」名和靖氏だとかが扱われる伝記というのは聞かされることが少ない。

柏田氏の話を読んでいて驚いたのは、彼が33歳でウガンダに赴任するのが1965年のことだったという点である。その当時僕は未だ生まれたばかりで、言ってみれば柏田氏の2人のお嬢さんが僕と同じ世代である。そんな時期に既にアフリカに赴いて国づくりに関わろうとした日本人がいたということ自体が驚きだった。そして、74歳の今日まで、一生かかってウガンダという国と関わり続けたわけだ。日経のコラムにさらっと書かれていた初期の苦労が本当はどうだったのかというのが本にはかなり具体的に書かれているので、是非多くの人(大人であっても結構!)に読んでいただきたい1冊だ。既に絶版だが、図書館の児童書コーナーであれば扱っている可能性はかなり高いと思う。

ところで、
僕が中学生の頃、TBSの朝のテレビショーで「おはよう700」というのが放送されていて、その中の企画で「キャラバンⅡ」という、ボックスワゴンで世界を駆け抜けて現地のレポートをする企画があって毎朝見ていたのだが、その中で、見城美枝子さんがウガンダでアミン大統領のインタビューをやった週があった。(調べてみたら1977年10月のことだった。)一介のテレビ局のレポートカーがウガンダを通過する際にいきなり大統領とインタビューができるものなのかと驚いたのでよく覚えている。きっとヤマトが事前にセットしていたのだろうなと思う。本書でも書かれているが、柏田氏とアミン大統領は友人なのだそうな
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