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『人間の安全保障』 [読書日記]

人間の安全保障 (集英社新書)

人間の安全保障 (集英社新書)

  • 作者: アマルティア セン
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/01
  • メディア: 新書
内容(「BOOK」データベースより)
安全が脅かされる時代に、最も求められている「人間の安全保障」―紛争や災害、人権侵害や貧困など、さまざまな地球的規模の課題から、人々の生命、身体、安全、財産を守ることをいう。著者のセン博士は、2001年に設置された「人間の安全保障委員会」の議長を緒方貞子氏と共に務め、アジアで初めてのノーベル経済学賞受賞者である。本書は、今や流行語のようにもなっている「人間の安全保障」について、セン博士が、人間的発展、人権と対比しながら、その本質を語る小論集。グローバル化や、インドの核武装についての論考も必読。
読みやすい本である。いわゆる学術書とは違い、セン教授の講演録なので、一般聴衆向けの比較的平易な言葉で書かれている。訳者の技術がいいのかもしれない。そんな平易で200頁もない新書版なのに、ちょっと読み切るのに時間を要している。実は未だ読了していない。バンコク滞在中に1冊ぐらいは読み切れるのではないかと思って携行したが、整理できてなかった情報をまとめてブログに掲載する作業を優先させていたので結構時間がかかってしまい、本書を読み始めたのが滞在3日目に入ってからだったこと、そして滞在中にやっておきたいことは妻の方が圧倒的に多いため僕は子供達の相手に回ることが多く、子供達に注意しながら本を読むという芸当が意外とやりにくかったということがある。ホテルのワイヤレスLANの契約時間が残り僅かなので取りあえず「頭出し」だけはしておくが、追加の感想は読了後に加筆したいと思う。
(10月29日、バンコク時間午前7時30分)


いつ頃購入したのかよく覚えていないが、2006年1月発刊の本書を入手していた。暫く「積読」にしておいたのだが、今年6月に東京の自宅の蔵書を何冊かまとめてデリーに持って来た際に本書も入れておいた。理由は、アマルティア・セン教授がインド人だからである。1998年のノーベル経済学賞受賞者である同教授は、単に所得水準だけでは測れない貧困水準を「潜在能力(capability)」という概念を用いて分析することを提唱した著名な経済学者で、開発経済学を志す者であればその著書には必ず触れる人が多い。また、2001年に国連のアナン前事務総長の指名で創設された「人間の安全保障委員会」の共同議長でもある。インドで開発問題を多少でもかじるのであれば、この際手元にあるセン教授の著書はできるだけ読んでおいた方がいいと僕は考えた。ましてや旅先に携行しやすい新書版であるし。

本書は、タイトルほど「人間の安全保障」を中心テーマとして扱っているとは思えないものの、セン教授の思想がある程度コンパクトに凝縮されているという点では新書版のメリットを最大限に生かしているように思う。講演録や発表論文を中心に8編が収録されているのだが、どれも翻訳がわかりやすいし、格好の入門書であると思う。

但し、どこかの原書をそのまま翻訳したのではなく、編集者が何らかの意図を以って講演録や発表論文を集めてきたわりには、なぜ編集者はそれを選んだのか、どうしてこのような並びにしたのか、そして本書のタイトルに「人間の安全保障」と付けたのは何故なのかといったことが全く解説もされず、ただ訳文のみが収録されているという点では物足りなさも感じる。集英社はセン教授の講演録としてはもう1冊『貧困の克服』を出しているし、ノーム・チョムスキーの論文集も新書で扱っている。集英社新書に見られる大きな独自色だと思うのだが、集英社新書がどのような意図でこうした路線を採っているのか、編集者側でももっとアピールしてもいいような気がする。翻訳が良いのにちょっともったいない。

タイトルにもなっている「人間の安全保障」は後述することにして、幾つか面白かった点を先ず述べておく。

「グローバル化をどう考えるか」
米国発の金融危機が世界経済を直撃している今だからこそ、グローバル化がそもそも良くなかったのだという議論にもなりがちだが、セン教授は、グローバル化自体が問題なのではなく、グローバル化によって得られる利益の配分、即ち、富裕国と貧困国の間で、また1国内の様々な集団の中でそれをどう分けるのかが問題なのだと強調している。世界の中で、貧困層も富裕層も同様にグローバル化を必要としているが、重要なのは「経済的な交流と科学技術の進歩による目覚しい利益を、困窮した弱者の利害に充分な関心を払いながら、どうすればうまく利用できるか」という点であると述べている。(p.54)

「民主化が西洋化と同じではない理由」
サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は、21世紀の世界においてイスラム文明とキリスト教に基盤を置く西洋文明は元々衝突不可避だったのだと論じてよく読まれている名著であるが、セン教授はハンチントンが唱えた「自由で平等な公開選挙は民主主義の真髄であり、絶対必要条件」とする見方を引用し、国際情勢に関する議論が選挙に重点を置いていることに疑問を呈している。セン教授によれば、「《公共の論理(公共の理性にもとづく思考や推論)》によるより広い考え方では、民主主義は政治思想上もその実践においても、公の場の自由な議論と相互の協議を保障することに主眼を置かなければなりません」(pp.71-72)とする。そして、民主主義を「議論による政治」と理解すれば、民主主義思想の歴史的なルーツが、世界中いたるところにあったと指摘し、西洋以外の社会における知性の歴史が、殆ど顧みられてこなかったという事実を嘆いている(p.97)。

「インドと核爆弾」
ここでは2人の偉人を引用しているのが興味深かった。1人目は詩人ラビンドラナート・タゴールである。彼が1917年に述べた言葉が引用されている。「ある国民が権力を求めるあまり、心を犠牲にして武器を増強させるなら、より危険な目に陥るのは敵ではなく自らである。」(p.101)

もう1人は、アブドゥル・カラム前大統領。引用もされてはいるが、セン教授はカラム前大統領のナショナリスト的な傾向の強さを否定的に捉えているのが印象的だった。カラム前大統領はいつも笑顔を絶やさず人当たりの非常に良い印象を受ける科学者でもあるが、そうしたお方でも1998年のインド核実験の時は「素晴らしい光景」と核実験現場を形容したと引用されており、セン教授は圧倒的な力への崇拝が前大統領にもあったということを嘆いている。

「人権を定義づける理論」
ここでは先ず既述の「潜在能力(capability)」の定義について、「潜在能力とはすなわち、人間の生命活動(ファンクショニング)を組み合わせて価値のあるものにする機会であり、人にできること、もしくは人がなれる状態」を表すとし、この概念によれば、「まったく同じ手段をもった人同士でも、現実に与えられる機会はきわめて異なったものになる可能性がある」ことを示唆しているという(p.151)。そして、社会正義を扱う理論では、「人が現実に保有しているだけでなく、保有する自由があること」こそが問題だと主張している。「生きるのに最低限必要なものさえ欠乏する深刻な状況が世界各地で起きており、それらの多くが選択されたものではなく、こうした状況を回避する自由がないことから生じている」と強調している(p.153)。

また、これまで人権を定義づける理論に関する研究の中で、最も注目されてきたのは、どちらかというと「《人権》の立法化とその制度化」(p.161)であったが、「人権」を実現する方法は、立法化以外にも、社会全体での認知、社会運動、監視活動等、いろいろ考えられると強調している(pp.178-180)。

最後にどことは言わないが全体を通じて印象に残ったことを少し述べておく。

第1に、引用の多さに驚かされた。誰がどこで何を言ったか、それが歴史上どのような位置付けにあり、後世にどのような影響を与えているのか、かなり詳細に描かれている。講演の中でこれができるということは原典をちゃんと当たってそれなりの消化ができているということであるが、ベンサムやロールズ、ローザ・ルクセンブルク等等、よくもまあこれだけ幅広い情報収集がなされているものだと驚かされる。博論を書くためにはそれなりに先行研究だけではなく影響力の大きい先達の原典を読みこなしておく必要があるのは僕もわかっているのだが、それがとてもできていない自分の現状を省みると、このままじゃいけないと焦る以前にとてもここまではできんと白旗を揚げたくなる衝動に駆られてしまう(そういう自分もセン教授の本をちゃんと読もうとしているわけではあるが…)。

第2に、「人間の安全保障」と言いつつも、そこでセン教授が強調されているのは基礎教育の拡充がかなりのウェートを占めているというのが印象的であった。僕の理解では保健も重要だと思っていたのだが、極端な話、本書の中では基礎教育が健康問題への取り組み全般に主要な役割を果たすと言い切り、健康問題は一般の学校教育の方が専門の保健教育よりも有効だと主張までしている。基礎教育が最も重要だとしているのである。そう考えていくと、インドの第11次5カ年計画で教育が最重要課題として強調されているのも理解できるが、一方で少々疑問なのは、彼はインフラ整備も含めた経済開発を「人間の安全保障」と関連付けてどのように見ているのだろうかということである。

第3に、ケララ州の出生率低下について、本書の中で二度にわたって言及がなされているのも僕の問題意識から見て印象に残るポイントだった。セン教授は収録論文「持続可能な発展――未来世代のために」の中で、強制的な家族計画による生殖に関する自由の制限が、中国の一人っ子政策のように生活水準の維持に役立ったとしても、そうした政策を通じて重要な何かが持続されるどころか、むしろ犠牲になることにも気づく必要があるとしている。そして、そこで引き合いに出されるのが、強制的な措置で出生率の抑制を実現した中国との比較で、強制的な措置をとらなくても中国と同程度の出生率低下を実現させたケララ州を挙げ、女性の教育が拡大し収入のある仕事ができるようになったことなどの社会的要因の影響を受けて、出産の頻度は自然に減る傾向があると述べている(p.191)。

1回読んで全て理解できるような浅薄な本ではない、噛めば噛むほど味わいが出てくるような本だと思う。今本書を取り上げた背景の1つは、ひょっとしたら「人権」というテーマで人前でしゃべらなければいけなくなる可能性があるからであるが、この際だから「人間の安全保障」について改めて勉強し直すことも必要かなと思う。また次に読み直した際に新たに気付いたところがあれば、改めてブログで掲載してみたい。
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