『余話として』 [司馬遼太郎]
内容紹介
坂本竜馬の恋人で千葉道場の娘・さな子は晩年、炙の療治を生業としていた…など、小説で書き残したかずかずの話を歴史小説の大家が語る滋味あふれるエッセイ集
先日の城山三郎『無所属の時間で生きる』に続き、人からいただいた本の読み込み第二弾である。城山三郎の著作もほとんど読んでないが、司馬遼太郎もそうで、実家には父が読んだと思われる『竜馬がゆく』『国盗り物語』等は全く読んでいない。親の心、子知らずだったと猛省。自分で読んだ司馬遼太郎作品といったら、今まで『播磨灘物語』しかない。4年前に『播磨灘物語』を読んだのにしたって、当時NHK大河ドラマで『軍師官兵衛』が放送されていたから、黒田官兵衛を扱った作品でも読もうと思って手に取ったというのが正直なところで、当時のブログを読み直してみても、「いずれ司馬作品も読みたい」と書いておきながら、さらに手を出さずに4年も過ごしてしまったことになる。
司馬作品に手が出せなかった理由をあえて1つ挙げると、僕がわりとハマっていた南北朝時代を扱った作品が少なかったからというのがある。戦国・安土桃山時代や幕末を扱った作品はすぐに思い付くし、平安末期から鎌倉初期の作品もある。でも、南北朝時代というと思い付かない。それじゃまったくないのかというと、本日ご紹介する、著者曰く「無駄ばなし」の類の中には、若干ながらも南北朝の時代が主題となっている話も出てくる(「太平記とその影響」)。南朝正統論の背景を探っている一編。それと、「日本的権力について」の論考の中でも、後醍醐天皇のあり方について論じている箇所が見られる。なんとなくお宝にありつけた感じで、オイシイ読書だったといえる。
とはいっても最大の収穫は、最初のつかみのエッセイ「アメリカの剣客―森寅雄の事歴」であった。全米剣道連盟の創設者である「タイガー・モリ」という人の名前は、昔米国駐在時代に何かの拍子で耳にしたことがあり、妙に心に引っかかっていた。僕自身が三段免状をいただいたのはその全米剣道連盟からだったし、当時稽古でご一緒した日本人剣士の方が、一時帰国するたびに東京の野間道場に稽古に行かれているという事情もあって、「アメリカの剣客」の話は、その野間家とタイガー・モリの関係にまで言及されている、なかなか読み応えのある内容だった。つかみでこれだから、『余話として』は無駄ばなしばかりというわけではない。どれ1つを取っても意味がある、僕らが知らない歴史に一側面を切り取ったいい作品ばかりが収録されている。
さて、この作品集は単行本は1975年初刊、文庫化は1979年にされている。僕が読ませていただいたのは1981年10月の第5刷であった。作品の内容もさることながら、僕が惹かれたのはこの1981年に刷られた文庫本が僕の手元に届くまでのプロセスで、僕がこの本をいただいたのは、今月下旬に離任されるJICAの専門家の方からだ。しかも、ブックオフの値札が付いているので、一時帰国中にブックオフで購入されたのだろうと想像はする。
問題はその前で、実はこの文庫本、住所、氏名、電話番号まで載っている蔵書印が押されていて、さらにご丁寧に、購入年月日まで「1982年7月19日」とメモされている。北九州市八幡東区の首藤さんという方の蔵書だったらしい。蔵書印を押されるということは、長くお持ちでいらしたんだろう。それがなぜブックオフに出回ったのかは推して知るべしだが、それが巡り巡ってこうして僕の手元に届き、そこで僕が「タイガー・モリ」について深く知るきっかけを与えてくれたという点に、感謝してもしきれない。
ちなみにこの本、今当地に来ている僕の長男に持って帰らせようと思っている。ブータンで司馬遼太郎を読んでくれそうな日本人が思い付かないから(笑)。
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