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南アジアの手工芸と開発(2) [インド]

AreaStudiesVol10.jpg『地域研究』、Vol.10 No.2 (2010年3月31日発行)
京都大学地域研究統合情報センター
南アジアにおいて手工芸を研究対象とする研究者と、手工芸を媒体とした開発に携わる実務者の協働を通して、近年の経済発展に伴い、変動の激しい地域社会の今を読む。

特集2「南アジアの手工芸と開発」
金谷美和「インド手工芸開発と企業家的生産者の誕生」
pp.165-182


本稿のサブタイトルは「インド西部カッチ地方、職能集団による更紗生産の事例より」とあり、インド政府による手工芸開発の施策の1つとして企業家的な手工芸生産者の育成があり、そうして企業家的に生産形態を転回させた事例として、染色業を生業とする職能集団「カトリー」を取り上げ、生産形態の変化がどのようなプロセスで行なわれたのかを詳述している。

カトリーは従来は狭く顔が見える範囲の特定顧客を対象としたローカル・コミュニティで、顧客のために更紗製品(下写真参照)を生産・販売していた。しかし、1970年代以降、不特定多数の消費者向けに大量生産を行なうようになっていったという。今や外国人観光客の「お土産」としてもお勧めの逸品だ。

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前にご紹介した中谷論文では、インドで同じ村落内に住む職能集団と土地所有カーストとの間には「ジャジマーニー」と呼ばれる関係が成立しており、特定コミュニティ内での固定的なパトロン・クライアントの関係があったが、本稿ではカッチ地方のカトリーの場合、貨幣を介して更紗の売買を行なっていたことがわかったという。

顧客から直接注文を受けて生産・販売を行なうため、生産量は元々少なかった。それが1960年代から70年代初頭にかけて、カッチ地方の更紗生産は、ローカル市場における衣服・寝具の需要が減退したため、危機的状況を迎えた。理由の1つはインド独立時のパキスタンとの分断で、カッチ地方とスィンド地方の自由な往来ができなくなり、牧畜民はカッチに降雨がない時期にスィンドに赴いて農業労働者として働くようなことができなくなり、現金収入が減ってカトリーから更紗購入ができなくなってきたこと。さらに、地形的に干潟に囲まれて島のような立地にあるカッチは元々海上交易で栄えたが、インド独立後、グジャラート州の大陸側と干潟との間に橋梁が建設され、陸上交易が海上交易に代替して州都アーメダバードの繊維製品がカッチに流入しやすくなったことが挙げられている。

カトリーも、1970年代半ば以降は更紗をカッチ地方を出て広く生産・販売するようになった。それまで顔が見える範囲の顧客のために生産していた更紗を、不特定多数の消費者のために生産するようになったのである。

変化のきっかけは1974年にグジャラート州手工芸開発公社「グルジャーリー」の局長にブリッジ・ブーシャン・バシンが就任したこと。バシンの中央での業績については前回「南アジアの手工芸と開発(1)」でも触れたが、彼が中央政府に招聘されたのは、このグルジャーリー局長時代の実績を買われてのことである。局長就任後、バシンは州内各地の手工芸品と生産者の調査のために精力的な視察を行なった。グルジャーリーは手工芸品販売の独自店舗を持っており、その店舗で販売する製品を生産者に発注していたが、その中で、カッチ地方のカトリーにも、更紗のベッドカバーを製作してほしいとの注文を行なった。当時カトリーは都市消費者向けのベッドカバーを製作したことがなかったため、バシンはデザイナーを現地に派遣して、カトリーとの共同商品開発も推進している。

1980年代に入ると、インド政府が手工芸品を通じた積極的文化外交を展開した。その中でカトリーも全国表彰を受賞してデリーや海外のデザイナーから仕事を受注したり、海外の展覧会に招待されるなどの実績を積んでいった。それらを通じ、カトリーは諸外国における手工芸品の高い評価を知り、手工芸の仕事に自信と誇りを持つようになった。州政府及び中央政府の施策を通じ、彼ら生産者が直接グローバル市場と繋がるようになった。さらには、評判を聞いた外国人がツーリストとしてカトリーの工房を直接見学に訪れるようにもなっていった。

金谷が本稿で強調しているのは、こうした政府によるマーケット教育が、政府機関やNGOの仲介を通さず、生産者が直接海外市場や国内市場と取引する能力をつけることを目指していたという点である。そして、更紗を生産するカッチ地方のカトリーこそ、この政府の意図したマーケット教育の効果を最も多く享受した生産者であると述べる。
 カトリーは、都市居住者を主とする消費者に向けて更紗を生産するようになった。従来の顔の見える顧客ではなく、不特定多数の消費者の需要に応えるために、さまざまな試みを行った。生産量の拡大、分業化、商品のバラエティ拡大、消費者の好みに応える商品作りなど、彼らの試みは、まさに市場経済における企業家のものである。カトリーは、市場経済に適応した生産者に転換していったということができるだろう。手工芸開発の施策によるマーケティング教育は、カトリーに関しては効果的だった。(p.179)

また、もう1つ重要な要因として、海外市場での需要拡大だけではなく、国内需要の拡大の寄与の方が大きかったという点である。インド国内で伝統染織の消費が拡大したのは1990年代初頭の経済自由化以降のことで、インド政府や州政府が手工芸品の店舗を設置して消費拡大に努め、急速に拡大していた都市の中間層がそれに応えた。

ただ、全てのカトリーが状況の変化にうまく対応できたわけではない。競争的な市場経済の中を生き抜けなかった生産者もあるし、政府の開発支援の対象となりながら、企業家への転換に成功しなかった手工芸品生産者も多い。「政府による手工芸開発は、市場経済の勝者のみを成功とみなすのか、あるいは企業家的でない生産者も、生業を維持できるような仕組みを作って、より多くの生産者を支えるのか、どちらの方針を今後とっていくのかが問われるであろう。」(p.180)


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