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『政治と秋刀魚』 [読書日記]

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年

政治と秋刀魚 日本と暮らして四五年

  • 作者: ジェラルド・カーティス
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2008/04/10
  • メディア: 単行本
内容紹介
昭和39(1964)年は東京オリンピックが開催された年である。その年に初来日したアメリカ人青年は、その後、大分二区の選挙戦をフィールドリサーチした『代議士の誕生』など日本政治の研究者として地歩を固めていく。本書は、政治学研究者が初めて日本語で綴った体験的日本論、日本政治論である。著者の日本政治に対するスタンスは明快だ。タテ社会の崩壊など日本社会の変化、日本人の意識の変化に、政治が「後れている」ことが、最近の政治の「混乱」の原因であると見る。そして、その「変化」を避けられないものと受け入れながら、昔の日本人の「美徳」について、愛惜を込めてこう語る。『当時、日本人はお金がなかった。だが、その頃の日本を「貧しい国」と見るのは大間違いである。お金は物質的なものであって、お金がなくてもリッチな人生を送れる――。これは、私がその頃の日本人から学んだ大切な教訓である。』やや自信を失くしかけている日本人への温かいエールである。
週末読書の対象として選んだ本書は、実は僕のブログの読者でいらっしゃる職場の同僚Mさんのお父さんから贈っていただいた1冊である。最近お疲れめの40代現役世代の僕達に対する優しいエールとして贈っていただいたのだろうと思いながら、各頁に目を走らせた。

僕は大学の専攻が英語で、副専攻で国際関係論を取っていたので、米国の日本研究第一人者の本は訳本ながらある程度は読んだことがある。ルース・ベネディクト教授の『菊と刀』の他に、ズビグニュー・ブレジンスキー教授の『ひよわな花・日本』、ハーバート・パッシン教授の『英語化する日本社会』といった、当時サイマル出版会が出していた日本研究の本はけっこう読んだ気がする。大学の受験勉強をやっている頃、よくラジオ英語講座『百万人の英語』を聴いていたが、毎週木曜日の講師の国弘正雄先生がその交友関係からエドワード・サイデンステッカー教授やパッシン教授、マイク・マンスフィールド教授の文章をリーディングで取り上げられることが多く、英語の語彙よりもその日本研究の含蓄の方が実は印象に残っている。社会人になった頃は「リビジョニスト」というのが全盛になりつつあり、カロル・ヴァン・ウォルフレンの『日本・権力構造の謎』を読んだ。

そんな中で、ジェラルド・カーティスという研究者がどこに位置付けられるかというと、パッシン教授の後継くらいの位置なのかなと思う。僕は「下田会議」という日米の有識者・政治家が集まって交流を深めた会議というのの存在をあまりよく知らなかったのだが、本書で登場する山本正さんが理事長を務める(財)日本国際交流センター(JCIE)を昔訪問するためにJCIEのことを事前に調べていて、この団体の事業の3本柱の1つになぜ「政治・議会交流」というのがあるのかにわかに理解できずに苦しんだことを覚えている。本書を読んでみて、山本さんがなぜ政治の道に進まずに民間レベルから日米交流促進を目指したのか、ようやく理解できたような気がした。

この本は、見た目著者の自叙伝に今の日本の政治と社会が直面する問題の分析と課題解決に向けた方向性の示唆を絡めた作品ということで、同じく政治学者の猪口孝教授が著した『トンボとエダマメ論』とよく似た書きぶりだなというのが印象だった。タイトルもなんとなく似ているし。猪口先生の著書を読んだ時もそうだったのだが、日本政治論・日本社会論といった切り口から読むというよりは、一研究者として修士論文や博士論文のテーマをどのように定め、どのような枠組みで分析し、情報を集めていったのかという点に非常に関心を持った。参与観察という手法は社会学ではよく用いられるが、政治学者でこの手法を用いて日本の政治を分析したという点でカーティス教授の研究手法は特筆に価する。そのために日本語を勉強されてもいる。大分2区の佐藤文生代議士の選挙活動にベタ張りになれるほど、僕自身が今のインドで自分の研究のためにどこかの村にベタ張りになっている余裕は、それとは他に仕事を抱えている身としては正直非常に難しいが(著者が言及しているような「不可能」という意味での「難しい」ではありませんが)、既に地位を確立したような研究者が若い頃にどのような問題意識を持って研究に臨んでいったのかは僕達にとっても参考になることが多い。ヒンディー語の勉強もちゃんとやりたいと思います。
ものを書くという作業は、フィクションでもノンフィクションでも、学術論文でさえ、クリエイティブな創造性を必要とするプロセスである。博士課程の学生の中にはそれを理解しないで、研究が完全でないと論文は書けないと思い込み、中年になっても博士号を取れない人がいる。博士論文を書くことはライフワークではなく、職を得るための「免許」である。研究が完全ということはあり得ない。論文を書いてみないとどういうデータが欠けているのか分からない。また、書くことによって自分の考え方が整理されてはっきりしてくる。そういうことをいつも学生に話して、早く論文を書いて卒業しなさいと勧めている。(p.100)
僕は既に中年だが、職を得るための「免許」が欲しいとして博士課程に今年入った。不完全でも論文を書けというカーティス教授の言葉を胸に、何度でも書いてみたいと思います。

他の切り口からでも本書は論じられるが、取り合えず僕の今の問題意識から言えることを述べさせていただいた。
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