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『村の暮らしと砒素汚染』 [読書日記]

村の暮らしと砒素汚染―バングラデシュの農村から (KUARO叢書)

村の暮らしと砒素汚染―バングラデシュの農村から (KUARO叢書)

  • 作者: 谷 正和
  • 出版社/メーカー: 九州大学出版会
  • 発売日: 2005/09
  • メディア: 単行本


内容(「MARC」データベースより)
ガンジス川流域の広い地域で起こっている砒素による地下水汚染問題を取り上げる。政策論や技術論からではなく、環境人類学の視点から、村人の暮らしを通して砒素汚染の問題を分析し、農村社会や開発援助の問題を考える。

バングラデシュの地下水砒素汚染問題については、先日、川原一之氏の『アジアに共に歩む人がいる』を紹介したばかりだが、実は同書と同じ時期にもう1冊の本が出版されている。川原氏と同じくアジア砒素ネットワーク(AAN)の一員である九州大学・谷正和助教授の著書である。この本は昨年末に第10回国際開発研究大来賞を受賞したので、その存在自体はその頃には既に知っていたし、機会があって今年2月に九州大学アジア総合研究センターが主催した国際シンポジウムに出席した際にも、現物が陳列されているのを見かけた。その時は購入しようという気持ちにまでは至らなかったのだけれど、その後関心が増してきて、「そういえばあの本は…」と思い、知人に頼んで日本からデリーに届けていただいた。(途中、別の人に貸し出したりしていたので、読みきるのに若干時間を要したけれど。)

コストパフォーマンスを考えたら非常にお薦めの1冊であると思う。新書サイズで1,000円という価格設定はちょっと高めかもしれないが、この価格以上に示唆に富んだ内容である。

地下水砒素汚染問題を見る場合には、地下水に砒素が溶出していくメカニズムを究明するための水文地質学的アプローチの他に、地表水や汚染地下水を浄化するサンド・フィルターの設計のような土木工学的アプローチ、健康被害を受けた住民に治療を施すための保健医療アプローチ、住民に砒素の危険を理解してもらい、基準値を超える砒素が出た場合には即刻飲用を中止するよう働きかけていくような社会学的アプローチ等が考えられるが、これに加えて、住民の生活習慣を細かく調べて、同じ井戸の水を飲んでいて健康被害が起きる場合と起きない場合の差がどこから生じるのか、水質上問題のない水源にアクセスできる住民とできない住民との差はどこから生じるのか、そもそも砒素の問題は住民生活の中で最も優先度の高いニーズなのかそうでないのか等を確認していくような、文化人類学的或いは環境社会学的なアプローチも必要となる。

谷助教授のグループはこの環境社会学的アプローチからバングラデシュのシャムタ村での調査を行ない、さらにマルワ村での調査を行なってシャムタのケースを客観視する試みも行って来られている。川原氏の著書はシャムタ村でのAANの経験を概観するのには格好の読み物であるが、これに対して谷助教授の著書は、AANが経験してきたことの中で、「なぜそうなるのか」という疑問に対して学術的見地から説明を試みたもので、おそらく途上国の農村開発に関わるような人にとっては非常に学ぶところが多い本だという印象を持った。

多少この問題を聞きかじったことがある者にとっても「なるほど」と思わせる記述が随所に見られる。

1)調査対象世帯を収入別で分類したグループ間で比較してみると、動物性たんぱく質の摂取量の違いが認められ、高収入世帯では低収入世帯に比べて動物性たんぱく質の摂取量がかなり多い。砒素中毒症状の発症抑制に効果があると思われる動物性たんぱく質は、世帯収入の高い世帯でより多く摂取され、低い世帯では少ない。たんぱく質の摂取が少ない世帯の住民は飲料水から大量に摂取した砒素に対する防御力が弱く、砒素中毒症状を発症しやすい傾向があるといえる。即ち、貧しい人ほど砒素中毒になりやすい(p.51)。

2)事故や病気など突発的な事態に備えるためにヤギなどの家畜は飼われているが、ギリギリのところで行われている「貯金」をはたいて栄養をとってしまった場合、砒素に対する備えは上がるものの、緊急事態が起こったときそれに対応するすべはなく、家計は崩壊してしまうかもしれない。そのため、砒素に対する防御として動物性たんぱく質を十分に摂取することは、全体としては適応的ではなく、現状では貧しい世帯が採ることのできる解決策ではない。従って、対策は砒素中毒の第一原因である飲料水中の砒素を断つことに向けられなければならない(pp.71-72)。(栄養対策と飲料水対策との優先順位付けについて、ここまで明言している記述は初めて見た。)

3)筆者は、AANがシャシャ郡で行ってきた砒素対策事業について、運営が主にAANのスタッフによって行われてきており、現地で活動する地元NGOにその対策活動手法が伝えられておらず、地元NGOが同様な活動を独自で展開する能力までは養成されていないことを認めているが、その一方で、日本からの人員が協力現場で長期間実際の活動を行うという援助の枠組みには利点があると強調している(pp.150-151)。バングラデシュの地下水砒素汚染問題では、世界銀行も対策事業の支援を行っているが、住民への直接的な働きかけができておらず、必ずしもうまくいっていない。また、本書にも登場するが、某国際機関が行なった援助は、住民ニーズよりも先ずため池浄化装置(PSF)の設置が先にありきで行われたため、建設には住民の協力が得られても、結局PSFを維持管理する住民レベルの枠組みまで作らなかったために、結局目詰まりを起こして使われなくなってしまったという。

砒素の問題は、住民がこれまで体に染み付いている生活習慣や行動パターンを大きく変えることを求めるものであるが、口で言うだけでは行動変化は長続きしないので、常日頃から住民に接して粘り強く啓蒙普及を図っていくことも求められる。地下水砒素汚染という問題への対処は、図体のでかい国際援助機関よりも、NGOの草の根活動の方が実はうまくいくのではないかという仮説を僕は持っているが、それを本書はサポートしてくれているように思う。

4)この問題の根本的解決には当事者の自助努力によるしか道はないにもかかわらず、行政、NGOなど外部者が継続的な働きかけをしても、住民側の動きが鈍く、筆者はこの自立性欠如の要因の1つとして、住民の意識の中での砒素問題の相対的位置付けが低いのではないかという仮説を挙げている。砒素は深刻な問題で、砒素の含まれる水を飲み続ければ確実に健康被害が起こることは間違いないが、1日や2日水を飲んだからと言って目に見える悪影響はない。何年も飲み続けても自覚症状が何も起こらない人も多い。だから、どうしても切迫感に欠ける。それよりも、食料調達、仕事など日々解決しなければならない問題は山積している。それらの問題に比べれば、砒素の問題はすぐに取り掛からなければならないわけではなく、優先順位は低いのかもしれない(pp.161-163)。

5)上記4との関連において、この問題は村の人々によって定義されたものではなく、日本人も含めて外部の人間によって問題と規定された。少なくとも我々が村に行くまでは村に砒素問題は存在しなかった。但し、これは我々が本当は問題でもないことを問題として捏造したということではなく、苦しんでいる人はいたが、それを問題として認識する枠組みが存在せず、客観的には砒素問題はあっても、住民の認識としてはなかったということである。外部からでも砒素問題を規定したことは、住民の生活における選択肢を増やし、「幸せ」な生活に貢献することで、単なる価値観の押し売りではない。ただ、ここで言いたいのは、砒素汚染の対策活動の契機は我々(外部者)が作ったことを認める必要があるということである(pp.173-174)。

この点も初めて気付かされた。地下水の砒素汚染が問題だ問題だと騒いでいるのが外部の人々ばかりで、当の住民達にとっては、言われるまで飲んでいた井戸水が問題だったなんて気付かず、ちょっと体調が悪い程度でしか健康被害を捉えてこなかったのではないか、であれば飲んでいる井戸水を飲用で用いるのはやめようと言われても簡単にはやめられないというのはわかるような気がする。


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