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娘に語るお父さんの歴史 [重松清]

重松清著『娘に語るお父さんの歴史』                                                  ちくまプリマー新書、2006年2月


内容(「MARC」データベースより)
「お父さんって子どもの頃どうだったの?」 娘・セイコの素朴な疑問に、生きてきた時代を確かめる旅に出た父・カズアキ。揺れ動く今を生きる世代へ贈る、「昭和」の後半を生きてきたフツーのオジサンたちみんなの物語。

「お父さんの子供の頃は私たちより幸せだった?」と子供から聞かれた、どう答えるだろうか。昭和38年生まれの著者は、かつてのテレビや漫画、スポーツ、事件などを振り返りつつ、その答えを探していく。

「娘に語る」という形式のため実にわかりやすい。例えば「公害」は、がむしゃらに全力疾走する選手(日本)が靴で撥ね上げた土、といった具合に、実際に子供に説明する際に便利な言い回しも多い。「幸せとは未来に希望があると信じること」と言い切る著者の、娘たちへの温かい眼差しが心地よい読後感を与える。(週刊新潮 2006年4月13日号、p.126)


週刊新潮の書評を読んでついつい衝動買いしてしまったのがこの本。重松清という直木賞作家は、前々から気にはなっていたのだけれど、この本を読んでみて、昭和38年生まれの彼の感性がとても自分には心地よく、また作品を読んでみたいと思ってしまった。本書を読んでいて、うんうんと頷くところが多かった。なにげなく時代を生きてきた僕達だけど、こうして同世代の作家が僕らの時代を整理して総括してくれたのはとてもありがたいことだと思う。重松清という同世代の作家を得たことを僕達は感謝すべきだ。

それで、僕達は父や母の世代の子供時代や今のミッキー、チッチー、ルイたちの世代に比べて幸せだったのかという問いであるが、結局のところは幸せだったのだろうということになっている。「いまがたとえ不幸でも、未来には幸せが待ってると思えるなら、その時代は幸せなんだよ。つまり、未来が幸せだと信じることができる時代は、幸せなんだ」(p.156)――なんだか、アマルティア・センの「貧困」概念の定義を聞かされているような感覚である。ひょっとしたら、不幸か幸福かという問いは、貧困か否かという問いとよく似ているのかもしれない。「幸せって何だっけ」という問いかけに対して、「今日よりも明日が幸せだと感じられる安心感」が幸せなのだろうか。

そういう安心感が得にくい世の中になってきていることを毎日のニュースを見るたびに感じる。でも、重松は、「お父さん=カズアキ」をして次のように言わせている。

「お父さんやお母さんの役目は、未来に幸せがあると信じておまえやノリコを一所懸命育てることで、そこから先の、幸せの中身はおまえが自分で作るんだよ」どんなカタチでもかまわない。カタチにならなくても、まったく、かまわない。セイコがいつか「わたしの人生は幸せだったな」と振り返ってくれれば、たぶんそれがなによりの親孝行になるはずなのだ。(p.167)


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