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『観応の擾乱』 [趣味]

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書
内容紹介
足利尊氏と直義兄弟、尊氏の子・直冬や執事の高師直、そして南朝勢力までもを巻き込んだ激しい争いは、何をもたらしたのか? 論じられることの少なかった内乱を多面的に論じ、その内実を明らかにする。

今の業界で働いていて、歴史の知見が評価されるようになってきたのは割と最近のことである。開発途上国の開発を論じる際に、歴史の、特に日本史の知識が役に立つと実感したことなどほとんどなく、特に僕がハマって長年文献を集めてきた南北朝時代の話なんて、業界人との会話の中でネタとして使ったことなど一度もない。日本の近代化の経験は知っておいた方がいいが、話はせいぜい江戸時代まで遡るので足りる。しかし、ブータンの政府要人の中には、織田・豊臣・徳川の統治の変遷をよくご存じの人もいて、そういうところでは隠れ歴ヲタの知識が役に立つと感じたこともある。「関ヶ原」って徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した天下分け目の合戦があった場所だけど、東国から畿内への進入路として、過去にも天下分け目ともいえる合戦が二度あったんだよ、というとちょっとウケる。答えは壬申の乱(672年)と青野ヶ原合戦(1338年)である。

畿内への入り口に近いから、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて東国と西国を盛んに往来した足利高氏・直義の兄弟も、高師直一族も、この辺りは何度も通過している筈である。そういうのの面影が少しでも残っていると面白いのだが、1つあるとしたら、僕の生まれた産院にほど近い、小島頓宮跡ぐらいだ。1353年、京都で起きた戦乱により、足利義詮は後光厳院を奉じて美濃へ逃れ、現在の揖斐川町小島の地に頓宮を設け、後光厳院の住居としたとされる。その年の6月から8月末にかけての3カ月弱のご滞在だったらしいが、その後の足利尊氏勢の京都奪還に乗じて、再び都に戻られている。これも、本書で扱われる「観応の擾乱」の末期の出来事となる。

「観応の擾乱」から「正平の一統」までの出来事を、解説も交えながら詳述された文献というのはそれほど多くはない。南北朝時代を扱った歴史解説はこれまで「観応の擾乱」だけを切り出して述べるようなことはしてきておらず、あくまで南北朝時代全体を1つの主題として扱ってきた。また、僕らはこの時代を『太平記』を読むことで入っていっているので、基本的には南朝びいきという線でイメージを形成してきてしまっている。よって足利尊氏も弟・直義も、どちらもおのれの権力奪取のために南朝を利用した悪役だし、高師直一族も、足利家執事の立場を利用して極悪非道の限りを尽くした抹殺されるべき人物だと意識に刷り込まれてきた。

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