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『親鸞・激動編』上下巻 [読書日記]

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(上) (講談社文庫)

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/06/14
  • メディア: 文庫
親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

親鸞 激動篇(下) (講談社文庫)

  • 作者: 五木 寛之
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/06/14
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
【上巻】京を追放された親鸞は、妻・恵信の故郷である越後に流されていた。一年の労役の後、出会ったのは外道院と称する異相の僧の行列。貧者、病者、弱者が連なる衝撃的な光景を見た親鸞の脳裡に法然の言葉が去来する。「文字を知らぬ田舎の人びとに念仏の心を伝えよ」。それを胸に親鸞は彼らとの対面を決意する。
【下巻】雨乞いの法会を切り抜けた親鸞は、外道院と袂を分かち、越後に施療所を開設する。訪れる人びとと話し合う穏やかな日々を恵信とともに過ごしていた折、法然の訃報が届く。とうとう師を喪った親鸞は自分自身の念仏をきわめることを決意する。関東から誘いがかかったのはそのときだった。ベストセラー第二部。
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今年二度目の首都ロックダウンも三週目に入り、人とのつながりを断たれる不安感と集中力が削がれるストレスに抗いつつ、なんとか過ごしている。サンチャイ★ブログは読書ブログとして登録しているのに、この間は本当に読書にも集中できない。読んでいないわけではないのだが、集中できずに目下100ページ少々で読むのを中断している本もある。教訓としては、こういう精神状態の時に500ページもあるような自己啓発書は読むべきじゃないということだった。いずれその本についても読込み再開し、ブログでも紹介したいが、あまり長ったらしい自己啓発書はすぐに行動につなげにくいなと思う。

読込みのスピード感が落ちているなと感じている時にネジを巻くには小説しかない。五木寛之の『親鸞』の京都編を2月に読み、越後に配流された後の展開が気になっていたこともあり、日ごろのちょっとした「間」を動画などでない形で埋める手段として、「激動編」を読むことにした。上下巻合わせて約4日で読み切った。特に、12日(土)でFacebookライブをやり遂げてからの空き時間が大きかった。

ざっくり言えば、上巻は越後での数年間と法然の死去の報、下巻は常陸国の小島の草庵、稲田の草庵を拠点とした東国布教活動が描かれている。京都で法然の下に通って専修念仏を励行していた間はいいが、誰もが念仏を唱えれば浄土に行けるという念仏の普及には庶民百姓に接することは当然必要だし、そこには死んでから浄土に行けるという先の目標ではなく、日々の困難にどう立ち向かっていくのかという眼前の指針が必要だ。(今年二度目のロックダウンが息が詰まりそうなのも、まさにその点にあるように思う。)「念仏を唱えれば死んでも地獄には行かない」と言われても、今の現実が地獄のようなところであるなら、人々の救いにはなりにくいし、念仏の説得力には欠ける。

また、人々の中に入って行けば行くほど、そこにある在地の既存の民間信仰との対峙も避けられなくなってくる。「激動編」、特に上巻では修験道がかなりクローズアップされていて、庶民百姓の日々の悩みに対して加持祈祷などで応える術を持っている修験道に対して、親鸞の専修念仏がどう答えを見出すのかが1つのテーマとなっていた気がする。

で、そこの部分はちょっとうまく描かれていなかったように僕には思えた。なんだか、ずっと悩んでいる親鸞の姿をずっと見せられた感じであった。村人の窮状を癒すためにと自ら始めた三部経千回読誦を途中で辞めたり、ずっと親鸞に付き添ってきた恵信を叩いちゃったり、なんか人間臭くはあるんだが、それでいて信者は常陸で増えていくという、何がきっかけで庶民に受け入れられる講話がなされるようになったのかはっきりしないのに順風満帆に布教活動になっていったのが理解しづらかった。

ただ、以下の引用にはヒントがあると思ったので転載しておく。でも、何がきっかけでそう思えるようになったのかは一度読んだだけの今ではまだよくわからない。
「おすくいくだされ阿弥陀さま、ではない。われらの念仏とは、自分がすでにしてすくわれた身だと気づいたとき、思わずひsらず口からこぼれでる念仏なのだ。ああ、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなくそう信じられたとき、人はああ、ありがたい、とつぶやく。そして、すべての人びとと共に浄土へいくことを口々によろこびあう。その声こそ、真の念仏なのだ。そなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土へ迎えられるのだ。地獄へおちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じとり、ああ、ありがたい、とよろこぶめし、ということなのだ」

「信が先、念仏は後、ということでござるか」
(p.197)

最後に、京都編を読んだ時には、後白河法皇や後鳥羽天皇は登場したが、全体としては当時の政治的背景への言及は希薄だったと述べたが、激動編はその点では良かった。越後滞在期には、元々あった国司・郡司という制度に対して鎌倉幕府が設けた守護・地頭の制度が干渉をはじめたことが窺える描写がかなり出てくるし、常陸国入りしてからは、源実朝暗殺やら北条政子死去やらの出来事が端々に出てくる。三代執権北条泰時は幕府の制度を確立した人物としてポジティブに評価されることが多いが、それが庶民百姓の生活にもたらした影響、どんよりとした空気については、政治史中心の学校の日本史ではあまり教わることはなく、そういう時代の背景を知ることができるという意味で、大河ドラマの裏エピソードとしては面白い読み物だと言える。

さて、これで残すは「完結編」ということになるが、いつ読もうかな~。取りあえずはちょっとスッキリしたし、次の仕事に向かおうという気持ちの整理もこれでついた。
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