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『考える「もの」たち』 [仕事の小ネタ]

考える「もの」たち―MITメディア・ラボが描く未来

考える「もの」たち―MITメディア・ラボが描く未来

  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
いま、MITの産学協同の研究機関「メディア・ラボ」では、考えるものたちが続々誕生している。なぜ「もの」は考えるべきなのか? それはわたしたちの生活をどのように変えるのか? メディア・ラボにおける一大プロジェクト「考えるものたち」(Things That Think)の全貌がここに。
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本書は、首都の1回目のロックダウンがはじまった頃から読みはじめたのだが、第1章「考える「もの」とは何か?」の各節を読み終わった後、厳密に言うと第1章最終節「スマートマネー」あたりで記述が少し理解しづらくなり、読むのを後回しにした経緯がある。翻訳のせいだという意見もあるかもしれないが、2000年3月発刊の時点で、日本で誰も話題にしていたと思えないようなことで、著者には見えているものを翻訳者が同様に理解して、それをその当時あった日本語の語彙に落とし込んで描くなんてことは、至難の技であったに違いない。

繰り返すが、本書の発刊は2000年3月。「九州・沖縄サミット」が開催された年である。7月下旬に開催されたサミットでは、「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章」が採択された。議長は、当時「IT」を「イット」と呼んで話題になった森喜朗総理であった。そうした森総理のリーダーシップ(?)もあり、「IT」は当時バズワードとなった。

ただ、そこで言われていたITとは、情報通信技術へのアクセス、情報へのアクセス、教育での情報通信技術の活用と人材の育成といったことだったように思う。僕を含めた下っ端役人はテクノロジーに対する造詣がないため、そもそもわかりにくい話が多かったし、わかってないから当然再現することもできない話ばかりだった。もっと言えば、そういうことを普通にやっていた人々、特にインドでアクセシビリティ向上に取り組んでおられたインド人技術者の方々のこと、僕は畏敬の念を持って見ていた。

ただ、本書で描かれている世界は、九州・沖縄サミットで論じられていたことよりもはるかに先に行っている。沖縄ITイニシアティブの前提は、コンピュータとはCPUにディスプレイとキーボードとマウスがつながったもので、それを利用するには机の前に座らないといけなかった。これに対して本書の前提は違う。コンピュータとはこちらが予めプログラムした命令に基づき、ものを制御したり、ものからデータを集めたり、それを送信したりするものだという考え方で、ウェアラブル端末に近いイメージである。

本書の第1章第3節「ウェアをどこで装着するか?」に、こんな記述があった。

最初の非人格的なコンピューターはメインフレーム(業務用大型コンピューター)であり、つねに遠くの部屋に固定されていた。その後、ひとつのワークグループが共有できるミニ・コンピューターが生まれ、そこから個人の使うコンピューター、すなわちパーソナル・コンピューターが生まれた。ブラウン管とキーボードとマウスを持つベージュ色の箱のまえにすわることと、コンピューターを利用することを同じと考えるかぎり、パソコンによって、昔よりもはるかに個人的な表現が可能になったはずである。そして装着型はついに、ユーザーをコンピューターに近づけるのではなく、コンピューターをユーザーに近づけようとしているのだ。(p.67)

コンピューターを着用するという発想は、フィクションですら予想できないほど意外なものだった。コンピューターがたえず利用できるようになると、それは文字通り、仕事をしたり遊んだりするためのただの器具というより、わたしたちの生活の一部になる。これはコンピューターの、これまでとはまったく異なった概念なのである。(p.68)

沖縄ITイニシアティブで言われていたことは、おそらくパソコンの部分までで留まっていた。ただ、当時でもさらにそれより進んで、ラップトップを市民一人一人にもっと近づけようというアプローチはあった。著者と同じMITメディア・ラボの初代所長だったネグロポンテが提唱したOLPC(子ども一人ひとりにラップトップ1台を)という取組だった。でも、OLPCも2000年代前半は盛り上がったけれど、その後はあまり聞かれなくなった。

今では、装着型コンピュータは、自作どころか小型のマイコンボードが市販されていて、参照できるソースコードもかなり多くて、装着型コンピュータを自分でプログラムすることもかなり容易になってきている。マイコンボードは市販のものが利用でき、コードも書けるとしたら、次に必要なのはそれをマウントする筐体をできるだけユーザーにとってフレンドリーなものにできるかどうかだろう。そこではものづくりの知識やスキルも必要だが、そうした工作を可能にする機器もコストダウンが進み、デスクトップ化が進み、よってパーソナル化、分散化が進んでいる。

本書を出された後、著者がこれまでの20年以上の間、ブレることなく大幅に進めたのがこの、デジタルファブリケーションの普及だ。

しかし、そうはいっても、例えば文系人間の僕が日常生活や社会の中での課題を発見して、それに対して「こんなものがあったらいいのに」と思ったとしても、それを自分で作ろうという発想にはなかなか至りづらい。「自分は文系、社会科学系だから、コンピュータや情報通信の知識もないし、図面を描いたりデザインをやったりするのはちょっと…」という、自分の専門分野から外れた領域に対する苦手意識、あるいは無関心があるからだ。電子工作が必要だったとしても、昔物理が苦手だったという人には電気の話は心理的障壁があると思うし、使用する素材(木材や金属、プラスチック、繊維等)への幅広い理解も必要になる。

僕たちは長年、そうした専門分野の中でぬくぬくと過ごしてきたが、そうした「これを作れないかな」という問題意識を持った時、そういうことに造詣のある人との交流があると、自分一人では越えられない壁を越えて、自分なりの解決策、小さなイノベーションを生み出せるかもしれない。

MITのメディア・ラボが、相当早い時期からこの「交流」と「相互学習」を当たり前のように進めていたことには感銘を受ける。端的な例として、著者は自身が携わった国際的チェリストであるヨーヨー・マとの共同プロジェクトについて頻繁に本書で言及している。著者は物理学者で、ヨーヨー・マは音楽家だ。プロジェクトは、ありきたりのチェロの形をした入力装置に位置センサーを仕込み、弾かれる弓と駒からの距離によって、コンピュータが音を作り出すという仕組みだったらしい。

著者は言う。「コンピューターがテクノロジーであって、チェロはテクノロジーではない」との思い込みが僕たちにはあるが、実際、楽器は有益な最新テクノロジーによって、絶えず改良され続けてきたのだと。

コンピューターと音楽を融合させると、ワクワクするような結果が生まれる。かつては多くの人々が楽器を演奏した。なぜなら、それが音楽を聴く唯一の方法だったからだ。マスメディアが登場すると、社会は、芸術的にクリエイティブになることによって報酬をもらう少数の人々と、彼らがつくりだしたものを消費する大多数の人々とに分かれていった。これからは、楽器演奏を学ぶ労力を減らし、パソコンとCDプレイヤーとストラディバリウスのあいだのスペースを開拓することで、いまよりはるかに多くの人々が創造的に自己表現できる可能性が広がるだろう。音楽づくりのテクノロジーの改良は、人々を隔てるのではなく、人々に参加させる助けにもなりうるのだ。(p.56)

芸術とテクノロジーの橋渡し、デジタル世界と物質世界の橋渡し、「ものについて学ぶ」ことと「ものをつくる」こととの橋渡し―――メディア・ラボがやっていることは、著者によれば、「ばらばらの断片をまとめあげることのできる唯一の場所」(p.3)らしい。境界を勝手に定めないこと、交流を促進して、相互に学び合うこと。その必要性を改めて認識できたことが、本書を読んだ収穫だった。

最後はWIREDがフィーチャーしたメディア・ラボ初のイノベーションの動画をご覧下さい。境界を決めないで様々な知見やスキルが集まると、こんなのができましたという代表的なケースが紹介されている。


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